漢詩と中国文化
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白楽天:漢詩の注釈と解説



白楽天は中唐を代表する詩人ということになっている。中唐の時代というのは、その名のとおり盛唐と晩唐に挟まれた時代で、唐王朝が繁栄から没落へと向かう転換期に当っていた。転換期というのは、一方では体制の古い要素が乗り越えられて新しい息吹が芽生えてくる側面をもつとともに、転換ゆえの不安定さを併せ持っている。前者の要素がうまく働けば、その王朝は勢いを盛り返していっそう栄えることとなる可能性が高まるが、後者の要素が暴走すると破滅していく危険性を持ってもいる。中唐の時代はこの二つの要素が絡まり合いながら、基本的には没落に向かってゆっくりと坂を転がり落ちて行った時代だったと言えるのではないか。

白楽天はそんな時代にあって、いったんは時代に深くコミットしようとしながら、コミットし続けるタフさに欠けていたために、後半生は隠逸詩人を気取り、いわゆる閑適の境地に遊ぶようになった。それ故詩人としての評価は高いが、文人としての評価は必ずしも高くないといった不思議な人である。というのも、中国の文学者というのは単に詩人としての能力のみならず、官僚としての業績をも要求されるというのが通常であって、この二つを併せ持った人間を文人と称するからである。単なる文章の達人としては、誰も評価はしてくれないのである。それ故かの杜甫も、名は豈に文章もて著れんや、と嘆いたわけである。

転換期のプラスの要素とマイナスの要素について触れたが、それらに対して白楽天がどのような係わりをもったか。プラスの要素のうち最も大きいのは、旧来の貴族政治が次第に破綻して、新しい階級が生まれつつあったということで、その新しい階級の一員として、白楽天は先陣を切っていたということがあげられる。李白や杜甫が生きた盛唐時代までは、貴族的な門閥制度が横行し、身分の低い家に生まれたものは、どんなに才能があっても出世することはできなかった。ところが白楽天の時代になると科挙を突破して官僚になった人間に活躍の場が与えられ、そうした階層から宰相が出るようにもなってきた。白楽天自身も身分の低い階層に属していたが、科挙を突破することで出世の機会を掴んだわけである。白楽天自身は、自分の性格もあって宰相にまでは至らなかったが、白楽天の従兄は宰相になっている。こうした新しい階層が活躍すれば、王朝の沈滞を克服することができたかもしれないわけだが、実際にはそうはうまく運ばなかった。マイナスの要素が余りにも大きく働いたためである。

マイナスの要素のうち最も大きなものは藩鎮と呼ばれる勢力の拡大である。安史の乱以降勢力を拡大した藩鎮が各地に割拠して、事実上独立王国のような観を呈するようになった。それに対して歴代の皇帝はほとんどなすすべがなかった。そのため中央政府の威光は極端に制限せられ、唐王朝は分裂と解体に向かって進んでいくようになった。これが一つである。

もう一つは、政府内の不毛な権力争いの横行である。派閥抗争は中國の各王朝の歴史を彩る最大の特徴と言えるが、唐王朝もその例外ではなく、中唐以降はそれが猖獗を極めた。この派閥争いには宦官たちが大きな影響力を発揮した。彼らは皇帝までをも自分の意のままにあやつり、自分の意にならないと見るや皇帝を殺すようなことも平気でやった。実際、白楽天が官僚として生きた四十年ほどの間に、皇帝は六人代ったが、そのほとんどの皇帝は宦官たちによって殺されている。

こんなわけであるから、官僚たることには細心の注意が必要となる。そうでないと権力闘争のとばっちりを食らってひどい目にあうことともなる。白楽天自身もちょっとした不用意がもとで失脚し(江州左遷)、何年も冷や飯を食う羽目に陥った。白楽天の面白いところは、この一度の失敗に懲りて、以後余計なことをしないようになったことだ。前時代の王維や後世の蘇軾が役人としての意地を通し、何度も左遷の憂き目にあっているのに対して、後半生の白楽天は比較的穏やかな役人生活を送った上に、五十代にして事実以上官僚生活から脱落している。官僚であることから来る危険性に余程敏感であったしるしだろう。

こういうわけで、白楽天の生涯は四十四歳での江州左遷を境に大きく二つの時期に区分される。前半は、身分の低い家に生まれながら奮励努力して科挙に合格し、官僚としての颯爽とした活躍をした時代だ。その時代における白楽天の抱負は、天子の御意見番として、天下の情勢を奏上することであった。これを白楽天は風諭詩という形であらわした。風諭詩というのは、臣民の窮状や役人の理不尽ぶりについて、詩の形であらわしてそれを天子に読んでもらい、政治を正しい方向に向けることを目的としたものだった。白楽天は、自分の使命はそこにあると感じて、新楽府五十首や秦中吟十首などの風諭詩を精力的に作り続けたのであった。

だが、その志に反して、彼の名を高くしたのは例の「長恨歌」なのであった。この長大な詩は、よく知られているように、玄宗皇帝と楊貴妃の不幸な愛を描いたものであって、風諭というよりはロマンスというべきものだった。白楽天は余興のつもりでこれを書いたのであったが、瞬くまに中国全土に伝わり、白楽天は一躍時代の寵児になってしまったのである。天子に風諭する文人としてではなく、甘美なロマンスの作者としてである。後世蘇軾が白楽天を称して白俗といい、その俗っぽい作風を軽蔑したが、それは長恨歌のような、俗受けを狙った作品を白楽天の神髄と受け取ったことの結果だろう。

白楽天にとって江州左遷はよほどショックな出来事だったようだ。これに懲りて、以後白楽天は政治的な行動を慎むようになった。親友の元稹が宰相になった時でも、派閥争いにまきこまれることを恐れてか、彼との付き合いに一線を画したし、また史上有名な牛李の抗争が猖獗を極めた時にも、個人的には牛僧孺と親しかったにかかわらず、どちらの陣営からも距離をおいた。その結果、元稹のようなひどい目にあわずに済んだ。それのみならず、中央政府よりも地方にいることを選び、またいよいよ安全な居場所がないと感じるようになると、自ら進んで事実上の引退生活に入ってしまった。晩年の十数年間における白楽天の役人生活は、閑職の録を食むといったもので、殆ど仕事をせずに、勝手気ままに過ごしていたのである。おかげで今日に伝わる白氏文集七十数巻が成ったわけであろう。

役人としての、したがって文人としての白楽天は中途半端な生き方に終り、そのことについて白楽天自身「中隠」の生き方と表現しているが、詩人としての名声は生前より非常に高く、単に中国のみならず、日本にまでも伝わった。枕の草子に引用されているほど、日本人にとって親しみやすい詩人だったことは、あらためていうまでもない。

白氏文集は風諭詩を冒頭においているが、白楽天の詩の神髄は閑適詩と呼ばれるものであろう。日本人が愛したのも、長恨歌と並んでこの閑適詩の方であり、白楽天自身が重視していた風諭詩のほうはあまり重んじられることがなかった。というのも、白楽天の風諭詩は、風諭と言いながら鋭い観察や痛切な批判という点で、杜甫の時局批判の詩に比較しても中途半端な印象を否みがたい。

杜甫の場合には、一市井人として民衆の苦しみを歌ったのに対して、白楽天は天子の御意見番の立場から民衆の有様を取り上げた。杜甫が内から見つめているのに対して、白楽天は上から見下ろしている。そんな雰囲気が漂っているので、作品に急迫性が感じられないのである。



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