漢詩と中国文化
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屈原:中国最初の大詩人



屈原は中国4000年の文学史の上で、最初に現れた大詩人である。詩経以前の詩は、いずれも無名の庶民によって歌われたものであるのに対し、楚辞に収められた屈原の詩は、一個の天才によって書かれた個人の業績としては始めてのものである。その後中国に現れたすべての詩人たちは、多かれ少なかれ、屈原を自分たちの先駆者とし、模範として仰いできた。

屈原生涯の事跡については、我々は史記賈生列伝を通じて知ることができる。別の言い方をすれば、これが唯一の情報源であり、後世に書かれた屈原伝はことごとく、史記の記述に依拠している。

屈原は紀元前4世紀頃、楚の王族の一門に生まれた。名を平といい、懐王の左徒となって国事に従事したが、奸臣の讒言にあって王から遠ざけられ、公室を追われた。屈原30歳頃のことだとされる。

史記はこのときの屈原について次のように記している。「忠を竭し智を尽して、以てその君に事ふ。讒人之を隔つ。窮すといふべし。信にして疑はれ、忠にして誹らる。能く怨むこと無からんや。屈平の離騒を作るは、蓋し怨みより生ずるなり。」

屈原が去った後、不明の懐王は次第に自分の立場を悪くしていった。まず秦に対抗して斉と同盟したものを、秦は張儀という者を遣わして懐王をだまし、斉との同盟を破棄させた。だまされたと知った懐王は秦に攻め込んだが、魏に背後を襲われ、斉の援護も受けられず、やむなく楚に退却した。

翌年秦は領地の割譲を以て和平を請うてきたが、懐王は「領土などいらぬから、張儀を渡せ。」と要求した。しかし狡猾な張儀は楚に入っても策略をめぐらし、死を逃れた。

そのころ斉に使いしていた屈原は、急いで楚に戻ると、「なぜ張儀を殺さなかったのか」と、懐王を諌めた。後悔した懐王は張儀を捕らえようとするが、張儀はまんまと秦に逃げ帰ってしまった。

その後諸国が連合して楚を責めた。そのとき秦王は助け舟を出すふりをして、懐王との会見を求めてきた。屈原は「秦は虎狼の国であり、信用できません、お出でにならないほうが宜しいでしょう」と忠言したが、懐王の末子子蘭が、秦との交誼を説いたので、懐王は秦に出かけてしまった。その後懐王は楚に戻ることなく、秦の地で憤死するのである。

頃譲王が即位して、その弟子蘭が令尹となると、人々は子蘭の言葉を信じたために懐王は窮地に陥ったのだとささやいた。子蘭はこれに憤り、屈原もまた自分に批判的なことをいったことを根に持って、屈原を陥れ、ついに追放してしまった。

この二度目の追放は屈原60歳頃のことだとされる。史記はその部分の記述に続いて、「漁夫辞」を引用している。

度重なる不遇に絶望した屈原は、ついに石を抱いて泊羅の淵に身を投じ、自ら命を絶った。

以上の史記の記述を読んで感ずることは、楚を巡る政治情勢については詳しく書かれているが、肝心の屈原自身については、記述が極めて簡単なことである。おそらく司馬遷の時代にあっては、屈原についての情報は絶え絶えな状態となっており、司馬遷はその不足を補うために、周辺の情報を盛り込んだのであろう。そうすることで間接的に、屈原の人物像を浮かび上がらせようと図ったのではないか。

いずれにしても、司馬遷が屈原に付与している人物像は、大志ある人間であるにかかわらず、周囲のものの讒言にあい、それがもとで、鬱々とした一生を送らざるを得なかった不遇の人である。離騒や九章の諸編は、そうした屈原の悶々たる心情を歌ったものだ。






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