漢詩と中国文化
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秦州雜詩二十首其一:杜甫を読む



三吏三別で民衆の塗炭の苦しみを歌った杜甫は、華州での地方官としての職を辞する決意を固めた。民衆の苦悩を前にして、自分もその原因を作っている一人だという自責の念が沸き起こるとともに、毎日が瑣末な決済に追われる職務に耐えられない気持ちを感じたからだろう。
加えて洛陽から華州に戻った乾元二年の夏は、華州一帯は日照りに見舞われ、旱害とイナゴの害のために、飢饉の恐れも高まっていた。杜甫はこれを契機に華州での職を辞し、一家を挙げて秦州に移った。そこにいた甥の杜佐を頼ったのである。

秦州は現在の甘粛省天水である。華州から西へおよそ450キロ、胃水上流に臨んだ町だ。杜甫の時代においても、西方への窓口として栄えていた。

450キロといえば大変な距離だ。行在所のあった鳳翔県よりもさらに150キロも奥にあり、途中には陝西甘粛境界の険難な道を越えなければならない。そこを家族連れで徒歩の旅をするわけであるから、艱難は並大抵ではなかったろう。

しかし何とかして、秦州につくことができた。到着するや早々、徒歩は秦州雑詩二十首を作った。杜甫の詩の中でも傑作に数えられるものである。


杜甫の七言律詩「秦州雜詩二十首」其一(壺齋散人注)

  滿目悲生事  滿目生事を悲しみ
  因人作遠遊  人に因って遠遊を作(な)す
  遲回度隴怯  遲回 隴を度ること怯たり
  浩蕩及關愁  浩蕩 關に及んで愁ふ
  水落魚龍夜  水は落つ魚龍の夜
  山空鳥鼠秋  山は空し鳥鼠の秋
  西征問烽火  西征 烽火を問へば 
  心折此淹留  心折れて此に淹留す

目に触れるものみな悲しいことばかりなので、縁者を頼って遠く旅することにした、歩みは遅々としてはかどらず、隴の坂道をおびえながら渡り、気もそぞろなまま、関に差し掛かっては憂いにとらわれる

夜の魚龍川には水が流れていたのが見え、鳥鼠山の秋はさびしげに見えた、これから先、西の方にも戦いののろしが上っていると聞くと、心がくじけてしばらくここに滞在することにしようと思うのだ


「滿目悲生事」という冒頭の句が、この旅を決意するに至った杜甫の心と、これから始まる放浪の後半生を暗示しているかのようである。

詩句のひとつひとつが、この旅の険しさを表している。遲回とは子供を伴って険しい道を歩くことの辛さ、浩蕩とは前途のはるかなることを嘆いて茫然と立ちすくむさまを彷彿せしめる。

そしてやっとの思いで秦州にたどり着くと、そこは平和な楽園ではなく、周囲には戦いののろしが立ち昇って見えた。どこへ逃れても、身の安楽を得ることはできぬのだ。






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