漢詩と中国文化
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發秦州:杜甫を読む



杜甫の五言古詩「秦州を發す」(壺齋散人注)

  我衰更懶拙  我衰へて更に懶拙なり
  生事不自謀  生事 自ら謀らず
  無食問樂土  無食くして樂土を問ひ
  無衣思南州  無衣くして南州を思ふ

自分は年老いてますます懶拙になり、生活のこともうまくはかどらぬ、食にこと欠いては暮らしやすい土地を求め、着るものにこと欠いては暖かい土地が恋しく思う

  漢源十月交  漢源 十月の交
  天氣涼如秋  天氣涼として秋の如し
  草木未黄落  草木未だ黄落せず
  況聞山水幽  況んや山水の幽を聞くをや
  栗亭名更嘉  栗亭 名は更に嘉し
  下有良田疇  下に良田疇有り
  充腸多薯蕷  腸を充たすに薯蕷多く
  崖蜜亦易求  崖蜜亦た求め易し
  密竹複冬筍  密竹には複た冬筍あり
  清池可方舟  清池舟を方すべし
  雖傷旅寓遠  旅寓の遠きを傷むと雖も
  庶遂平生遊  庶くは平生の遊を遂げん

漢水の源たる成県の地は十月の半ばに当たって、天気は涼しく秋たけなわ、草木はいまだ落葉せず、山水は優美な趣と聞く

また栗亭はその名の通り栗がよく実るというし、その下にはよい田んぼが広がっているという、腹が満ちるほど芋の類がとれ、崖にはミツバチの巣がかかっているという

竹やぶでは冬でも筍がとれ、池に船を並べて遊ぶこともできる、そこまでは長い道のりだが、かねて思っていたとおり是非いってみたいものだ

  此邦俯要沖  此の邦は要沖に俯し
  實恐人事稠  實に恐る人事の稠きを
  應接非本性  應接は本性に非ず
  登臨未銷憂  登臨未だ憂ひを銷さず
  溪穀無異名  溪穀は異名無く 
  塞田始微收  塞田始めて微收す
  豈複慰老夫  豈に複た老夫を慰めんや
  惘然難久留  惘然として久しく留まり難し

ここ秦州は要衝の地にあって、人々がおびただしく行きかう、自分は人と付き合うのががらではなく、山に登ってもここでは気晴らしが得られない

渓谷には変わった石がころがっているわけではなく、田んぼにはすこしばかりの収穫があっただけ、これではとても満足してはいられない、何時までもいる気にはなれないのだ

  日色隱孤樹  日色 孤樹に隱れ
  烏啼滿城頭  烏は啼いて城頭に滿つ
  中宵驅車去  中宵車を驅って去り
  飲馬寒塘流  馬を寒塘の流れに飲(みずか)ふ
  磊落星月高  磊落として星月高く
  蒼茫雲霧浮  蒼茫として雲霧浮く
  大哉乾坤内  大いなるかな乾坤の内
  吾道長悠悠  吾が道長く悠悠たり

太陽が孤樹の陰に沈み、城門に烏が群がり鳴く頃、自分は車を走らせてここを去り、寒塘の流れで馬に水を飲ませた

夜空には星が散乱し、周囲には青々とした霧が立ち込める、宇宙は果てしなく大きい、わたしがこれから行く道もまた遥かに遠い


杜甫は秦州にやってきてわずか3ヶ月にして、この土地を去ろうと決意した。その理由はこの詩の中で述べているとおり、頼るべきもない身で人と交わるのが苦手な自分には、この地での確固とした生活地盤が築けないばかりか、厳しい気候がつらく感じられたこともあったようだ。

杜甫は他にもっとよい落ち着き先がないものかと常に考えていたようだが、そんな折に同谷の知人から誘いを受けたらしい。同谷は現在の甘粛省成県、秦州(現在の天水)からは南へ約120キロの地点にある。そこは冬でも寒さが厳しくなく、実りも豊かで生活するのも楽だろう。そう思った杜甫は家族を連れて、乾元2年の旧暦10月同谷へと旅立ったのだった。






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