漢詩と中国文化
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遣悶奉呈嚴公二十韻:杜甫を読む



杜甫の成都での生活は5年半に及んだ。その大部分は知人たちを頼りながらの、貧しくも安寧な生活だった。その成都時代の最後、杜甫にとって重大な出来事が起こった。官吏に任命されたのである。職名は検校工部員外郎というものであった。わずか数ヶ月の短い期間在職したに過ぎなかったが、杜甫が生涯に達した最高の地位である。この地位の名称を以て杜甫は杜工部と称されることになる。

杜甫にこの職を斡旋したのは厳武である。厳武は杜甫より14歳も年下であったが、杜甫とは若い頃から交友があった。その厳武が杜甫のいる成都に長官として赴任してきたのは上元2年(761)のことである。ふたりは早速旧交を温めた。

だが厳武は翌応永元年(762)、粛宗の葬儀の責任者として長安に呼び戻された。京に戻った厳武は杜甫のために京兆功曹参軍という職を斡旋してやったが、このときは、杜甫は断った。しかし広徳2年(764)、再び成都に戻った厳武は杜甫のために検校工部員外郎の職を斡旋してくれたのだった。

杜甫は、今度は受け入れた。検校工部員外郎は杜甫が生涯に得た最高位の官職であるし、また心を許す友人厳武の幕閣として、なにかと充実した生活をおくれるかもしれないという期待もあった。

だがその期待は外れた。職そのものに魅力がなかったのだろう。杜甫は窮屈な官僚生活にだんだん嫌気を覚えるようになり、わずか数ヶ月で職をなげうつ決意をするのである。

「遣悶奉呈嚴公二十韻」と題する詩は、恩人である厳武に対する感謝と、退屈な職務への倦怠との織り交ざった複雑な心境を歌ったものである。


杜甫の五言古詩「悶を遣らんとして嚴公に呈し奉る二十韻」(壺齋散人注)

  白水魚竿客  白水魚竿の客
  清秋鶴發翁  清秋鶴發の翁
  胡為來幕下  胡為(なんすれ)ぞ幕下に來る
  只合在舟中  只だ合(まさ)に舟中に在るべきのみ
  黄卷真如律  黄卷真に律の如し
  青袍也自公  青袍は也(また)公よりす
  老妻憂坐?  老妻坐?を憂え
  幼女問頭風  幼女頭風を問ふ

水に釣り糸を垂れている、白髪頭の老人とはこの自分のことだ、それがどういういきさつから役人などになったのだ、船の中で気ままに生活していればよかったものを

役所に出勤するのが日課、お仕着せの制服を着て過ごすのだ、老妻は座ってばかりで足にたこができませんかと心配し、子供たちは父親の不機嫌そうな顔を心配する

  平地專欹倒  平地欹倒を專らにし
  分曹失異同  分曹異同を失す
  禮甘衰力就  禮は甘んず衰力にして就くを
  義忝上官通  義は忝うす上官に通ずるを
  疇昔論詩早  疇昔詩を論ずること早く
  光輝仗鉞雄  光輝仗鉞雄なり
  ェ容存性拙  ェ容性拙を存す
  剪拂念途窮  剪拂途窮を念ず

役所づとめのつらさから体は麻痺し、同僚たちとは対立が絶えぬいるありさま、そんな自分でも厳公の好意をえて、大事にしてもらっているのはありがたい

厳公とは昔詩を論じ合った仲間、その折のよしみによって引き立ててもらっている、自分のような役立たずでも我慢されて、そっと見守ってくださっている


  露?思藤架  露?藤架を思ひ
  煙霏想桂叢  煙霏桂叢を想ふ
  信然龜觸網  信然として龜網に觸れ
  直作鳥窺籠  直に鳥の籠を窺ふところと作る
  西嶺紆村北  西嶺村北を紆り
  南江繞舍東  南江舍東を繞る
  竹皮寒舊翠  竹皮舊翠に寒く
  椒實雨新紅  椒實雨に新たに紅なり

今頃は露が草堂の藤棚にまとい、煙が桂の林に漂っていることだろうと思いながら、亀が網にかかってしまったような、籠の中のとりになってしまったような気分に陥る

我が草堂の西の方角には山々が見え、南の方には川が流れておる、今頃たけのこがすくすくと育ち、雨が降るごとに山椒の実が育っていることだろう


  浪簸船應斥  浪に簸(あふ)られて船應に斥くなるべし
  杯幹甕即空  杯幹(かは)きて甕即ち空し
  藩籬生野徑  藩籬野徑に生し
  斤斧任樵童  斤斧樵童に任す
  束縛酬知己  束縛知己に酬ひ
  蹉陀效小忠  蹉陀小忠を效(いた)す
  周防期稍稍  周防稍稍を期す
  太簡遂匆匆  太簡遂に匆匆たり

つないであった船は波に煽られて傾いているかもしれぬ、杯は乾き甕のなかは空っぽになっているだろう、まがきの枝は伸び放題になっているが、それは樵に切ってもらうことにしよう

こうして厳公に報いるために自分の身を束縛し、つまずきながらも小さな忠義を果たしている、手落ちのないように気を配ってはいるが、仕事振りが大雑把なのはいたしかたがない

  曉入朱扉開  曉入朱扉開き
  昏歸畫角終  昏歸畫角終る
  不成尋別業  別業を尋ずぬるを成さずんば
  未敢息微躬  未だ敢へて微躬を息はせず
  烏鵲愁銀漢  烏鵲銀漢に愁へ
  駑駘怕錦蒙  駑駘錦蒙を怕(おそ)る
  會希全物色  會(かなら)ず希ふ物色を全うして
  時放倚梧桐  時に放ちて梧桐に倚らしめんことを

朝早く出勤し、夕暮れに退出する、こんなわけで草堂を訪ねないでは、体を休ませることもできぬ

そんな自分はカササギが天の川を渡れず、また駑馬が飾り立てられるのを恥ずかしがっているような気分だ、せめて自分らしく生きて行きたいと思う






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