漢詩と中国文化
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陸游が生きた時代


陸游が生まれたのは宣和7年(1125年)である。その翌年宋は女真族の国家金によって滅ぼされ、さらにその次の年、宋の亡命政権が南宋と言う形で発足する。陸游はこの南宋時代の前半を生きた人だということになる。

宋は長い間、北西に位置する契丹人の国家遼によって苦しめられていた。そこへ女真族が台頭して北東に金という国家を作ると、宋は金と組んで寮を亡ぼしにかかった。その企みは成功して、寮は西へと逃れ去ったが(西遼)、今度は金が宋にとっての大敵となった。金は、陸游が生まれた宣和7年に華北地方に侵入し、翌靖康元年には首都汴京(開封)を占領する。ここに宋は滅びたわけである(靖康の変)。

宋最後の皇帝である徽宗、欽宗親子は数千人に上る皇族、官僚ともども北(遼東)へと連行されていったが、一人その難を逃れた康王趙構が、各地から集まった義勇兵を率いて王天符(河南省)で即位し(高宗)、元号を建炎と改めた。

高宗は当初金軍の追及を逃れて南進し、浙江省の寧波まで逃げたが、金軍が江南から引き上げると、杭州に都を置いて国造りを始めた。これが南宋である。(なお、高宗は逃亡の途中越州にも立ち寄り、その際この地に紹興という名を与えた。起死回生の願いを込めたのだと思われる)

建国早々の南宋にとっては、失われた北半分を回復して、再び往時の宋の姿を取り戻すことが悲願だった。それ故、都も臨安と名づけ、あくまでも国土回復達成までの仮の宿であることを強調した訳だった。(臨安の別名行在も仮の宿という意味である)

首脳部は、主戦派と講和派に別れた。主戦派の先頭には中国史有数の武人で英雄として名高い岳飛が立った。岳飛は軍を率いてよく金と戦い、金軍を中原から放逐したこともあったが、ほかならぬ南宋内部の敵によって殺された。

岳飛を殺したのは宰相の秦檜であった。秦檜は主戦論の代表格であった岳飛を殺すことによって、南宋内部の主戦派の勢力を削ぎ、金との和平を図ろうとしたのである。その結果、南宋は金に朝貢する形の屈辱的な講和条約を結び、毎年莫大な額の貢物を贈ることとなった。

今日杭州市内にある岳王廟には、岳飛の像のほかに、秦檜夫妻の像も置かれている。中国人たちは岳王廟に詣でると、岳飛の英雄ぶりを称賛した後、秦檜夫妻の像には唾を吐きかけたり、小便をひっかけたりするそうである。それほど、秦檜は悪党としてのイメージが強い。その秦檜に陸游も、苦い思いをさせられることとなる。

陸游が生まれたのは、金の侵入が始まる直前だった。その時父親の陸宰は安徽省寿春での任期を終えて首都開封に戻る船の中であった。陸游はその船の中で生まれたのである。陸宰は開封で新しい職務の辞令を受け、洛陽方向へ向かったが、どういうわけか職務怠慢の罪を指摘されて免職されてしまった。かくて職を失った陸宰一家は、仕方なく郷里の紹興へ引っ込むこととなる。しかし、これが陸宰一家にとっては幸いな結果となったのだ。もし戦火たちこめる北部にそのままとどまったなら、彼らにはどんな運命が待ち構えていたか。

秦檜が権力を握り、講和派が優位に立ったことで、南宋も北宋同様に、文人優位の国になった。北半分が金に侵略され、旧来の支配層の多くが没落する中で、国を担う人材は、科挙を通じて調達された。科挙に合格すれば出世の道筋が開けるし、逆に合格できなければ、官僚としての栄達は望めなかった。南宋の時代には、栄達とは官僚機構の階段を上ることに他ならなかったのである。

陸游の時代には、科挙は3年ごとに実施されていた。科挙は解試とよばれる一次試験と、省試と呼ばれる二次試験からなっていた。陸游は29歳の時に、解試のひとつ鎖庁試に臨み、めでたく主席合格となった。ところが同じ試験を受けたものの中に、宰相秦檜の孫がいた。秦檜は自分の孫が当然主席になるものと思っていたので、この試験結果に激怒したといわれる。

翌年行われた省試においても、陸游は見事な成績を収めたが、秦檜の横やりで、落第させられてしまった。主席合格となったのは、いうまでもなく秦檜の孫であった。こうして陸游は人生のスタートで躓いてしまったわけである。陸游が官僚として大した地位に上ることができなかったのは、彼自身の性格に基づくところもあるが、科挙に無事合格できなかったことが災いしていたといえよう。

秦檜は紹興25年(1155)、陸游が31歳の時に死んだ。秦檜が死ぬと、秦檜の手下どもは高宗によって殺されたり、追放されたりした。陸游にチャンスが回ってきたのは、そんな時期だった。

陸游は34歳の時に初めて官僚のポストに就いた。福州寧徳県の主簿というポストである。秦檜が生きている間は、決して期待できなかったことだ。また、秦檜一派なきあとで、主戦派の主張をしやすい雰囲気も生まれていたと思われる。陸游はことにつけて、金との戦いと、失地回復を叫んだのである。

こんなわけで、以後65歳で完全引退するまでの約30年間、陸游は役人生活と郷里での生活とを交互に繰り返すのであるが、それは時代の雰囲気と大いにかかわっていた。主戦派が勢いづくと陸游も勢いづき、主戦派が弾圧されると陸游も蟄居を余儀なくされるというパターンだった。

このように、生涯主戦論にこだわった陸游だが、自分自身は金との武力的な対決に直面したことはなかった。そんな中でただいちど、金と国境を接して、一定の緊張感を味わった時期があった。蜀(四川省)にいた一時期、金との国境に近い南鄭(漢中)に四川宣撫使として赴任していた王炎から幕僚として招かれたのである。

王炎は、この漢中(漢水上流域)から秦嶺山脈を越えて関中(渭水流域)に進出する夢を持っていたと言われる、主戦派の陸游がその志に共鳴したことはいうまでもない。しかし王炎はやがて職を解かれてしまった。講和派が勢力を強め、王炎のような冒険主義が煙たがられた結果だったようだ。

陸游は78歳という高齢で、中央への出仕を命じられた。呼んだのは時の宰相韓侂冑だった。韓はあの朱子を徹底的に弾圧したことなど、秦檜同様陰険なことで評判の悪い男であるが、秦檜とは異なって主戦派であった。もっとも、それは心からそう思っていたわけではなく、単なる人気取りだという批判もあるが、陸游にとっては、自分の信念に相応しい人物と受け取られたのかもしれない。

陸游は85歳という長い年月を、一貫して主戦派として生きた。彼の辞世の作とされるものにも、国土回復の希望が込められている。そんなことから陸游は、中国人にとっては愛国詩人の典型なのである。






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