漢詩と中国文化
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三山杜門作歌:陸游動乱を生きる


陸游の父陸宰は、宣和7年に都へ出仕すると、京西路(河南省に相当)転運副使(交通・経済省副長官)に任命された。そこで陸宰は大家族を伴って洛陽を目指したが、その途中にある滎陽という町に一時寓居することとした。しかし、そのことが職務怠慢の批判を招き、陸宰は免職になってしまった。

しかし、これが幸いしたのだった。もしそのまま洛陽に向かって赴任していたならば、陸宰一家は、怒涛の如く押し寄せてきた金軍によってひどい目にあわされたかもしれない。

陸宰一家は、金軍の馬蹄の音に怯えながら南を指して逃げ歩き、郷里の紹興にたどり着くことができた。

この時の逃避行の様子を、陸游は後に次のように歌った。

三山に門を杜ざして作りし歌

  我生學步逢喪亂  我生まれて步を學びしころ喪亂に逢ひ
  家在中原厭奔竄  家は中原に在りて奔竄に厭く
  淮邊夜聞賊馬嘶  淮邊 夜に賊馬の嘶くを聞き
  跳去不待雞號旦  跳び去って雞の旦(あした)に號ぶを待たず
  人懷一餅草間伏  人ごとに一餅を懷いて草間に伏し
  往往經旬不炊爨  往往 旬を經て炊爨せず
  鳴呼亂定百口俱得全 鳴呼 亂定まって百口俱に全きを得たり
  孰為此者寧非天  孰れか此を為せし者ぞ 寧んぞ天に非ざらんや

自分は生まれてまだヨチヨチ歩きのころに喪亂に会い、家が中原にあったために逃げ惑うこととなった、淮河のほとりでは賊の馬がいななくのを聞き、驚き慌てて朝が来る前に逃げ去ったこともある、

それぞれ粗末な食べ物を食いながら草陰に隠れ、往々10日間も炊飯しなかったこともあった、ああ、乱が収まったいま、我が大家族もなんとか生き延びることができた、これは誰のおかげだろうか、天のおかげに違いない


百口とは大げさな表現であるが、陸宰が引き連れていた一族郎党のことを指す。






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