漢詩と中国文化
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陸游最後の出仕


嘉泰二年(1202)、陸游は出仕を命じられた。実に78歳の時である。こんなにも高齢に関わらず、陸游が召しだされた理由は、ひとつには彼の声名が高かったこと、もうひとつには彼が日頃対金積極論者だったことである。そんな彼を政治的に利用しようと考えた人間が居ても不思議ではない。

陸游を召し出したのは時の宰相韓宅冑だったとされる。この人物は中國史上でも名うての悪人ということになっており、例の秦檜によく似ているとされるが、秦檜が対金懐柔路線を主張して今でも売国奴呼ばわりされているのに対して、この男の場合には対金強硬路線を主張したという違いがある。もっとも根っから対金強硬策を主張したわけではなく、それを政争の道具として使ったというのが真相のようではあるが。

陸游はどうも、この韓宅冑に政治的に利用されたようなのである。韓宅冑は一貫して対金強硬策を主張してきた陸游を登用することで、当時高まりつつあった領土回復の機運に乗り、自分の権力基盤を固めようとしたフシがある。それに乗った形の陸游はだから、節操を曲げて奸臣の誘いに屈したと批判されることがあるくらいである。

もっとも陸游が就いた職は政治とは関係がなかった。「中大夫、提挙佑神観、権実録院同修撰、兼同修国司」といって歴史編纂の仕事であった。陸游はこの職に一年間従事し、「孝宗実録」500巻及び「光宗実録」100巻を完成させて献上している。

上記の職に在任中、陸游はまた秘書監にも併せて任命された。中央図書館の館長のような職である。その時の喜びの気持ちを、陸游は一篇の詩に託した。「雜興.以貧竪志士節病長萬情為韻」10首のうちの其四である。


陸游の五言古詩「雜興十首、貧は志士の節を竪うし、病は萬情を長ぶを.以て韻と為す」其四(壺齋散人注)

  少年喜結交  少年 交を結ぶを喜び
  患難謂可倚  患難 倚る可しと謂へり
  寧知事大謬  寧ぞ知らん 事大いに謬(あやま)り
  親友化虎兒  親友 虎兒と化すとは
  出仕五十年  出仕して五十年
  危不以讒死  危ふく讒を以て死せざりき
  始畏囊中雓  始めは囊中の雓を畏る
  寧取道傍李  寧ぞ道傍の李を取らんや
  老來多新知  老來 新知多く
  英彥終可喜  英彥 終(つひ)に喜ぶ可し
  豈以二三君  豈に二三の君を以て
  遂疑天下士  遂に天下の士を疑はんや

若い頃は交友を喜び、困ったときには友に頼ろうと思ったものだ、ところがとんでもないことで、親友だと思っていたものが敵になったりした、宮仕え五〇年、よくもまあこれまではかりごとにかかって殺されずにすんだものだ、

若い頃は秀でた人物を尊敬し、つまらぬ連中は相手にしなかった、年を取ってからも友人はでき、そのなかには素晴らしい人もいる、どうして二三人のつまらぬ人のために、天下の士を疑うようなことができよう


ここでは自分を拾ってくれた韓宅冑を、老来の新知としてたたえているのだろうか、こんな詩を書いたから、後世に余計な詮索を許したのかもしれない






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