漢詩と中国文化
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除夕訪子野食焼芋戯作:蘇軾を読む


紹聖四年(1079)、家の普請が完成した頃、蘇軾は海南島に流されることになった。恵州での蘇軾の暮らしぶりが、流人の境遇に相応しくないという噂が立って、宰相の章敦がもっとひどい目にあわせてやろうと思ったためだ。

蘇軾は出来上がった家に、宜興から呼び寄せた家族を住まわせ、自分は末子の過ひとりを伴って海南島に渡った。その途中、やはり雷州半島の新たな流謫地に向かう途中の弟蘇轍と会った。紹聖四年から五年にかけては、かつての旧法党に対する章敦ら新法等による弾圧が猖獗を極めたのである。

海南島は、中国王朝の支配下にはあったが、住民の大多数は土着の黎族で、文明の及ばない土地であった。だから中国文明圏内とは意識されていなかった。そんなところへ蘇軾は流されたのである。章敦ら新法党の彼への憎しみがいかに強かったか、わかろうというものだ。

蘇軾父子は七月二日に、海南島北西部の澹州に到着すると、地元の役人張中の好意によって、官舎の一隅に寄宿させてもらった。そのことがもとで張中は後に言いがかりをつけられ、ひどい目にあうこととなる。

その奇遇先に、ある日突然、旧知の道士呉復古が訪ねてきた。呉は蘇軾の生涯の折節に姿を現し、なにかと蘇軾の境遇について心配してくれた人物である。今回も気になる情報をもたらした。宰相の章敦が、蘇軾を一層貶める意図を込めて、役人を派遣して蘇軾の行状を調査するつもりだというのだ。おそらく何かと因縁をつけられ、もっとひどいことになるかもしれないと。

その忠言の内容は、後になって実現する。蘇軾は官舎から追放されて住むところを失い、蘇軾に便宜を計らった張中は免職されてしまうのだ。

海南島の生活はひどいものだったらしい。蘇軾が常に飢えにさらされていたことは、次の詩からも読み取れる。この詩は、呉復古(子野)との友情を歌ったものだが、芋の子をわけあって食うほど、食い物に窮迫しているのだと語っている。


除夕 子野を訪ひて焼芋を食ひ戯れに作る

  松風溜溜作春寒  松風溜溜として春寒を作(な)す
  伴我飢腸響夜闌  我が飢腸に伴ないて 夜闌(やらん)に響く
  牛糞火中焼芋子  牛糞火中 芋子(うし)を焼く
  山人更喫懶残残  山人 更に喫(く)らう 懶残(らんざん)の残

松風がヒューヒューと吹き渡って春なお寒い、わしの腹も松風の音と合唱しておるわい、ところで子野のほうは牛糞の火で芋の子を焼いておるぞ、わしはそのおこぼれを頂戴するとしよう






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