漢詩と中国文化
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蘇軾と王安石:新法と旧法の対立



蘇軾の生涯にとって、王安石との関係ほど多義的なものはない。新法派と旧法派をそれぞれ代表する人物として対立しながら、一個の人間としては、互いに尊敬しあい、また敬愛しあったのである。

蘇軾が生涯の師として仰いだ欧陽脩は、王安石にとっても師であった。だが保守的な欧陽脩にとって、新法運動の先頭に立った王安石は、失望の種であった。

王安石の唱えた新法には、いろいろな立場からの評価があるが、歴史的にこれを見れば、北宋にとって必然的な改革であるという側面を持っていたことは否めない。

新法運動はさまざまな政策を内包していたが、最も有名でかつ影響力の大きかったものは青苗法といわれるものである。これは貧農の救済のための政策で、国が低利で農民に貸し付けを行うものであった。当時は地主や豪族が高利で農民に融資をし、その結果多くの農民がその返済のために困窮していた実態があったので、この政策には革新的な意義もあったのである。

旧法を擁護する者たちが反対の根拠として持ち出した理屈は、怠け者の農民を国が救済する必要はないというものだった、彼らはどうせ金の返済をせずに逃散するだろう、すると金持ちが穴埋めをさせられる羽目になり、貧乏になるだろう、そのうち国中が貧乏人だらけになるのは目に見えているから、新法はけしからんという言い分だった。

蘇軾も、旧法を擁護して王安石の新法を批判した。だが彼の場合は、ほかの旧法派の人物とは多少スタンスが異なっていた。それは政府が人民の暮らしに細かく介入することを非とする立場だった。新法は、蘇軾の目には人民生活への過度の干渉と映ったようなのだ。

蘇軾の生きた時代の官界は、新法派と旧法派の対立で明け暮れた。新法派が有力なときには旧法派の蘇軾は難を逃れて地方勤務を希望し、旧法派が有力になると中央に召しだされて重要な官職についたりした。

しかし両者の対立はそのうちに、政策をめぐるものよりは、単なる勢力争いに堕していった。蘇軾は新法派から迫害されるばかりでなく、旧法派からもひどい目にあったりする。

蘇軾の生涯はそれ故、短い期間の順調な日々を覗けば、追放と左遷の連続だった。最後には海南島という当時の中国にとっては最果ての島に流され、流謫のうちに死を迎えることとなる。

それにも拘わらず、蘇軾の生涯は、常に楽天的であったともいえる。人生を肯定的に生きようとする姿勢に貫かれていた。王安石に対する態度も、これを個人的な次元で見れば、政敵に対するものではない。政治的な立場を異にし、それがもとで時には迫害を受けた相手であったが、蘇軾は常に王安石を人生の先輩として、また芸術上の素晴らしいパートナーとして接していた。

そんな二人にとって、象徴的なやり取りがあった。元豊七年(1084)黄州に流罪されていた蘇軾は流罪先が汝州に変更になった。汝州は黄州よりは都に近いから、減刑という見方もあるがいずれにしても流罪のままだ。

その汝州へ向かう途中、蘇軾は金陵(南京)に隠棲していた王安石を訪ねた。その時の王安石は病床にあったが、蘇軾の訪問を喜んで詩を贈った。

北山 王安石

  北山輸緑漲横陂  北山緑を輸(いたし)横陂漲る
  直塹回塘艶艶時  直塹 回塘 艶艶たる時
  細數落花因坐久  細かに落花を數ふるは坐すること久しきに因る
  緩尋芳草得歸遲  緩やかに芳草を尋ねて歸ること遲きを得たり

北山は緑豊かに田んぼには水がみなぎっている、まっすぐな堀、丸い池がつややかな季節、落花をひとつひとつ数えたのも君と長く一緒にいたおかげ、ともに遅くまで芳草を訪ねて歩いたものですね

これに対して蘇軾は、王安石の詩に次韻して答えた。

次荊公韻, 蘇軾

  騎驢渺渺入荒陂  驢に騎り渺渺として荒陂に入る
  想見先生未病時  想見す先生未だ病ざりし時を
  勸我試求三畝宅  我に勸めて試みに三畝の宅を求めしむ
  從公已覺十年遲  公に從ふこと已に十年の遲きを覺ゆ

ロバに乗ってゆったりと田圃道を尋ねましたね、思い出すのは先生がまだ若かったころのこと、私に三畝の宅を求めなさいと勧めてくれましたね、あなたと合うのが10年遅かったのが悔やまれます


蘇軾には、どんな逆境にあっても、与えられた日々を前向きに生きようとする気概のようなものがあったのだ。

筆者が、数多い中国の詩人たちの中でも、東坡先生こと蘇軾を、ことのほか敬愛してやまぬ理由が、ここにある。






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