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山上憶良:去りし日の青春と今生きる老年


万葉歌人のなかでも、山上憶良ほど生に執着し、命の尊さにこだわったものはない。その思いは、時に路傍に横死したものへの同情となって現れ、時に貧窮問答歌における人へのいたわりとなって現れ、また子を思う切実な思いと名って迸り出た。それらの歌には、人間というものへの、限りない慈しみの感情が表現されている。

憶良は、自分の生についても貪欲であったようだ。貪欲というより、つねに前進したいという希求に突き動かされていたのかもしれない。彼の作歌活動は六十代の半ば頃に本格化し、七十を過ぎても衰えることがなかった。生へのこだわりがなければ、ありえないことだろう。

その憶良が、人生の黄昏を前に詠んだ歌が、万葉集巻五に収められている。「世間の住り難きを哀しめる歌」と題するものである。

去りし日の青春と、いま生きる老年とを対比させつつ、己の生き様を振りかえったものだが、そこには人間として生きることについての、果てしのない問いかけのようなものが息づいている。

―世間(よのなか)の住(とどま)り難きを哀しめる歌一首、また序
集め易く排し難し、八大辛苦。遂げ難く尽し易し、百年の賞楽。古人の歎きし所、今また及ぶ。所以因(かれ)一章の歌を作みて、以て二毛の歎きを撥(のぞ)く。其の歌に曰く、
  世間(よのなか)の すべなきものは 年月は 流るるごとし
  取り続き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫め寄り来たる
  娘子(をとめ)らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし
  白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳(あかも)裾引き
  よち子らと 手携(たづさ)はりて 遊びけむ 時の盛りを
  留みかね 過ぐしやりつれ 
  蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 
  丹(に)の秀(ほ)なす 面(おもて)の上に いづくゆか 皺か来たりし 
  ますらをの 男(をとこ)さびすと 剣太刀 腰に取り佩き 
  さつ弓を 手(た)握り持ちて 赤駒に 倭文鞍(しつくら)うち置き 
  這ひ乗りて 遊び歩きし 世間や 常にありける 
  娘子らが 閉鳴(さな)す板戸を 押し開き い辿り寄りて 
  真玉手(またまで)の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 
  手束杖(たつかづえ) 腰に束(たが)ねて
  か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ
  老よし男は かくのみならし 玉きはる 命惜しけど 為むすべもなし804)
反歌
  常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(805)
神亀五年七月の二十一日、嘉摩(かま)の郡にて撰定(えら)ぶ。筑前国守山上憶良。

「世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし」と、億良は時の流れの止めがたきことから歌い起こす。そして青春の美しさを謳歌した乙女もやがて髪に霜をいただき、颯爽と馬に乗って遊び歩いた丈夫も、いつまでも若いままにはいられないと、続ける。

「娘子らが 閉鳴す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば」とは、いかにも億良的な表現である。妻問婚が主流であったこの時代、若者は乙女の家の板戸を押し開いて乙女の臥所に至り、そこで玉手を交し合いながら抱擁したと歌うのは、億良自身の回想でもあったろう。

だが時は速やかに過ぎ去り、自分はこんなにも老いてしまった。今では、「手束杖 腰に束ねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ」という有様である。

そこで憶良は、「老よし男は かくのみならし 玉きはる 命惜しけど 為むすべもなし」と嘆息するのである。

歌の構成は素直で、言葉使いも流れるようである。そこに盛られたものも、当時として珍しい述懐ではなかったろう。しかし、万葉の歌人のなかで、老いることをこのように、正面から取り上げて詠った者はほかにない。ここに、憶良の著しい個性がある。

憶良はしかし、老いを単にネガティブなものとして、嘆くのみにとどまらない。老年から遡って自分の人生を回顧することを通じて、そこに人が生きることの意味を確認しようとしているのではないか。

憶良は述志の歌人といわれ、その観念的な傾向がよく批判の対象となる。しかし、歌に盛られた生々しい感情は、観念という殻を突き破って、古代に生きた一歌人の怨念を感じさせるのである。






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