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桜を詠む:万葉集を読む


桜は日本に自生する木であるし、もともと日本人の感性に訴えるところがあったに違いない。さればこそ万葉集にも、梅ほどの数ではないが、桜を歌った歌が四十首も収められているのであろう。その桜の花は、梅が春の訪れを知らせる花とすれば、春の盛りを飾る花であった。梅花の宴の歌の中でも、桜は梅に続いて咲く花として意識されている。
  梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(829)
薬師張子福子の歌。梅の花が散ってしまったら、そのあと引き続いて桜の花が咲くのでしょうな、と歌っている。目の前には梅の花が散る光景が広がっているのだろう。桜はまだ咲いていないが、梅が散れば桜が咲くのもそう遠いことではない。桜が咲けば、それこそ春の盛りだ、とうきうきしたような気分を感じさせる歌である。

上の歌とほぼ同じような気持を詠った歌が巻十の春の雑歌にある。
  鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ(854)
鶯が木を伝っているこの梅の花が衰えれば、桜の花の咲く季節が近づいてくる、という趣旨の歌。上の歌がやや理屈がかっているのに比べると、この歌は桜の咲くのを待ち望む感情を素直に詠っているぶんだけ、余韻の多い歌だといえる。

桜の花が咲き初めるのを詠んだものとしては、次の歌があげられる。
  春雨に争ひかねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり(1869)
桜が咲き始めるころには、春雨がよく降る。桜はその春雨と競い合うようにして咲き、春雨に打たれながら散るものだ。この歌は、そんな春雨と競いあう桜のけなげな様子を、暖かい気持で見守っている感じが伝わってくる。巻十の春の雑歌から無名の歌手の歌。

上の歌に続いて、春雨が強く降ると桜の花が散ってしまうと案じた歌がある。
  春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(1870)
春雨よ、強く降らないでおくれ、桜の花が、まだ見ないうちに散ってしまうのは惜しいから、という趣旨だ。

桜の花は早く散りやすいものであるから、その散りやすさを惜しんだ歌は多い。そこが梅の花との最も大きな違いだ。梅の花は、けっこう長く咲いているので、また散るときも桜の花のようにとりみだして先を急ぐといった感じではないので、梅の花の散るのを惜しむ風情はあまり絵にならないのであろう。一方桜といえば、花の盛りよりも、その散るさまに風情を感じると見える。下の歌は、桜の花のはかなさに、恋をかけて詠ったものだ。
  あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも(1425)
山桜の花が何日も(散らずに)咲き続けたならば、そんなに恋しくは感じないだろう、という趣旨で、これは桜の花の寿命の短さを逆説的に表現したものだ。寿命が短いからこそ、桜の花に対する思いも高まるのです、というわけである。その桜の花への思いを、この歌の作者は恋にかけているのだと思う。乙女の盛りも短いから、余計に恋心が引かれるのだ、と言いたいのだろう。

桜の花を詠った長歌もある。次は、巻八の中の若宮年魚麻呂の長歌と短歌一首。
  娘子らが かざしのために
  みやびをの 鬘のためと
  敷きませる 国のはたてに
  咲きにける 桜の花の  
  にほひはもあなに (1429)
 反歌
  去年の春遭へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へ来らしも(1430)

乙女が簪にするために、色男が髪飾りにするためにと、帝がおさめなさるこの国の果てに咲いている桜の花の、なんと美しいことだ、というのが長歌の趣旨。短歌のほうは、去年の春に君に恋してしまったといって桜の花が今年も迎えにきたのだ、という趣旨。人が人を恋したことを、桜が人を恋したことにして、その桜が人を迎えるために、このように今年も咲いたのだ、といって、自分のまごころを相手に伝えようとする意図が伝わってくる。要するにこの長短歌は、桜を介して恋を語っているわけである。





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