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秋雨を詠む:万葉集を読む


新古今集以来、雨といえば五月雨がまずイメージされ、したがって夏の季節感と強く結びついて今日に至っているが、万葉集には五月雨を詠った歌がひとつもない。梅雨らしきものを詠った歌はあるが、そういう場合には、「卯の花を腐す長雨」という具合に、否定的なイメージを持たされたものだ。万葉人が好んで、しかも肯定的なイメージで、詠ったものは、春の雨である春雨と、秋の雨である時雨や村雨である。秋の雨は、葉を色づかせるものとして詠われる場合が多い。

そんな秋の時雨を詠った歌を、まず一首。
  黄葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも(1583)
黄葉を散らす時雨に濡れながらおいでなさったあなた、そのあなたが贈って下さいました黄葉を髪にかざしました、と言う趣旨。天平十年秋、橘奈良麻呂の屋敷で催された宴の席で、久米女王が詠んだ歌だ。久米女王については伝未詳だが、この歌の雰囲気からして、橘奈良麻呂と深い関係にあったと想像される。

次は秋の時雨を詠った歌。
  時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(1594)
この時雨は、秋の長雨のことだと思う。その時雨に向かって、休みなく降るのはおやめ、あまり振り続けると、紅に染まった山の葉が散ってしまうのが惜しいから、という趣旨。この歌は、天平十一年に、皇后宮の維摩講において、仏前歌としてささげられたものと言う。その割りに、抹香臭さを感じさせない。

次は、萩に降りかかる秋雨を詠った歌。
  白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね(2116)
白露にしいたげられながらけなげに咲いている萩の花、その萩の花が散ってしまうのが惜しいので、雨よ降らないでおくれ、という趣旨。巻十「花を詠む」の一首。作者は未詳。

次は、時雨に群れて真木の葉が色づくさまを詠った歌。
  しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり(2196)
しぐれの雨がひっきりなしにふったので、真木の葉もたまりかねて、色づいたことよ、という趣旨。真木は、杉や檜などをいうが、それらの葉が美しく色づくというのは、現代人の感性にはないのではないか。

次は、しぐれの後の月を詠んだ歌。
  思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし(2227)
おもいがけず時雨がふったけれど、いつの間にかその雨雲が晴れて、月明かりとなったことよ、という趣旨。自然の現象を素直に詠って、単純ながら味わいが深い。巻十「月を詠む」の一首。

次は、時雨の降る夜に一人寝するさびしさを詠った歌。
  黄葉を散らすしぐれの降るなへに夜さへぞ寒きひとりし寝れば(2237)
黄葉を散らす時雨が降り続くときは、夜も寒いのです、一人寝をしていると、という趣旨。時雨の振る日は寒いものだが、夜もまた、寒い、二人で寝ていれば互いの体温で温まるが、一人ではあたたまりようもないから、というわけであろう。

次も一人寝のわびしさを詠った歌。
  秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き(2262)
秋萩を散らす長雨の降るころは、一人で起きてあなたを恋い慕う夜が多いのです、という趣旨、一人寝がさびしいので、是非私のもとにきて、なぐさめてくださいという気持を詠ったもので、当然女性の歌だろう。

次もしぐれにことよせて人恋しさを詠った歌。
  九月のしぐれの雨の山霧のいぶせき我が胸誰を見ばやまむ(2263)
九月のしぐれの雨のようにせつないわたしの胸は、だれを見たらなぐさめられるのでしょうか、という趣旨で、これもまた女性の歌であろう。





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