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上総の珠名娘子:万葉集を読む


万葉集巻九には、伝説や民俗に取材した長歌が多く収められている。なかでも高橋虫麻呂のものが、数も多く内容も優れている。この巻は、雑歌、相聞、挽歌の三部建てになっているのだが、そのいずれも虫麻呂の長歌を収めている。虫麻呂が伝説に取材した歌としては、葛飾の真間の手児奈の不幸な死を詠んだ歌が有名だが、それについては別稿で解説したところなので、ここではそれ以外のものをいくつか紹介しよう。

まず、雑の部から、上総の周淮の珠名娘子を詠む歌を取り上げよう。上総の周淮とは、今の君津周辺の東京湾沿いの漁村だったらしい。そこに珠名娘子と称する浮れ女がいた。虫麻呂はその浮かれ女をとりあげて歌を詠んだのである。

  しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮(すゑ)の珠名は
  胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の
  その姿(かほ)の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば
  玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて
  呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は
  あらかじめ 己妻離(か)れて 乞はなくに 鍵さへ奉る
  人皆の かく惑へれば たちしなひ 寄りてぞ妹は
  たはれてありける(1738)
 反歌
  金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出てぞ逢ひける(1839)
しなが鳥は安房の枕詞、その安房の隣にある周淮に珠名という女がいたが、その女は豊かな胸と引き締まった蜂のような腰を持ち、晴れやかな顔で花が咲くように微笑めば、道行く人は自分の行く道をいかずに、呼ばれもしないのに珠名の家の門に来る、珠名の家の隣の主人は、あらかじめ妻と別れて、頼まれないのに自分の家の鍵を珠名に渡す、男たちがみんなこのように惑うので、珠名は物腰もしなやかに、男たちに寄り掛かっては戯れるのだ、という趣旨。反歌のほうは、夜中でも客が訪ねてくればみだしなみもかまわずにサービスするという趣旨だろう。

この歌に詠われている珠名はいわゆる遊行女婦(うかれめ)だと思われる。遊行女婦は大伴旅人の周囲にもいたことが万葉集から知られるが、彼女らは国府などにいて、役人たちの宴席に侍って歌を詠んだりしていた。それなりに教養もあったと考えられる。虫麻呂がこの歌で取り上げている珠名もそうした遊行女婦の一人だったのだろう。

だがこの歌で詠われている珠名は、かなり性的な魅力に富んだ女性として描かれている。その魅力にひかれて男たちが惑うほどだ。そうした男たちを手玉に取って、戯れている珠名の姿が浮かんで見えるような描写である。この女性は遊行女婦というより、賤業婦といったほうがよいかもしれない。

高橋虫麻呂は、常陸の国府に赴任していたことが知られている、その折に隣接する下総や上総にも出張し、そこで土地に伝わる様々な話を収集し、それらをもとに伝説風な長歌をいくつか作ったんだと思う。





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