万葉集を読む

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柿本人麻呂歌集の旋頭歌:万葉集を読む


万葉集の巻十一及び巻十二は、「古今相聞往来歌類」と称されるとおり、新旧入り混じっての恋の歌を集めたものである。その冒頭を飾るのが、柿本人麻呂歌集及び古歌集からとられた旋頭歌併せて十七首である。柿本人麻呂歌集からとられた歌は、引き続き乗せられており、両巻ともまず人麻呂歌集の歌を載せた後で、それ以外の歌を載せるという体裁をとっている。人麻呂歌集の歌が特別な扱いを受けているわけで、いかに人麻呂が重視されていたか、よくわかる。それらの歌は、必ずしも人麻呂自身のものでないものが多いのだが、それでも歌の格としては、一段と優れているので、昔から重視されていたのであろう。

旋頭歌は古い形式の歌で、万葉後期にはほとんど詠われなくなった。万葉集には合わせて六十二首の旋頭歌が収められている。そのうち柿本人麻呂歌集から十二首、古歌集から五首、あわせて十七首が巻十一に収められているわけである。古今相聞往来歌類の冒頭を飾る歌であるから、いずれも男女の恋を詠っている。

  新室の壁草刈りしに坐し給はね 草の如寄り合ふ未通女(をとめ)は公がまにまに(2351)
新居の家の壁草を刈りにおいでください、草のようにしなやかに寄り添う乙女は、あなたの御心のままです、という趣旨で、家を新築したばかりの女が、男を招待しているものだ。これは、当時の婚姻形態が妻問婚であったことを反映している。その当時の女性は、家の中にいて、男のやって来るのを待つ身であったわけである。そういう背景を踏まえながら読むと、味わいが深くなる。

  新室を踏み静む子が手玉鳴らすも 玉のごと照らせる公を内にと申せ(2351)
新室を踏み鎮めている子が手玉を鳴らしているよ、その玉のように光輝くお人を内にお通しなさい、という趣旨で、これは乙女の保護者が男に向かってアプローチしている歌だろう。出来たばかりの新居の中で、乙女が手玉を鳴らしながらお待ちしています、ぜひお立ち寄りください、というわけだ。

  泊瀬の斎槻(ゆつき)が下に我が隠せる妻 茜さし照れる月夜に人見てむかも(2353)
長谷の槻の木の下に隠しておいた妻を、明るく照る月夜に誰かが見つけてしまわないか、心配だ、という趣旨。斎藤茂吉によれば、上から読んでも下から読んでもかまわないのが旋頭歌の特徴だという。たしかに下から読んでも、味わいは変わらない。

  愛くしとわが念ふ妹は早も死なぬか 生けりともわれに寄るべしと人の云はなくに(2355)
愛しいと思っている我が恋人は早く死んでしまってほしい、生きていてもわたしになびくことがないというので、という趣旨。片恋が苦しいあまりに、愛する人に死んでもらいたいというのは、おだやかではない。なお茂吉は、「しなぬか」のところを「しねやも」と訓している。そのほうが、死んでほしいという気持ちが強く現われていると言えよう。

  朝戸出の公が足結(あゆひ)を濡らす露原 はやく起き出でつつわれも裳裾濡らさな(2357)
朝早く去ってゆくお人の足元を露原が濡らす、わたしも早く起きて裳裾を濡らしましょう、という趣旨。後朝の別れを惜しむ女心を詠ったものだ。

  何せむに命をもとな永く欲りせむ 生けりとも吾が念ふ妹に易く逢はなくに(2358)
どうして命を長らえたいと望んだりしましょう、生きていても愛する人に会うことができないのなら、という趣旨。これは愛する相手に死んでほしいと思うのではなく、自分自身が死んでしまいたいと思う歌で、片恋の苦しさを詠ったものには違いない。

  息の緒にわれは念へど人目多みこそ 吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを(2359)
命がけで私は彼女を思っているのだが、人目が多くてなかなか会えない、いっそ吹く風であったら、しばしば彼女のもとを訪ねることができるのに、という趣旨。人のうわさを気にする歌は万葉集には数多い。

次は、古歌集からとられた旋頭歌。
  玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ね たらちねの母が問はさば風と申さむ(2364)
玉垂の簾の隙間から入ってきてください、母がどうしたと問うたなら、風の仕業と申しましょう、という趣旨。これは母のことを気にする娘の恋心を詠ったものだ。万葉の時代は、まだ母権主義が強かったから、娘は誰よりも母を気にしていたわけである。





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