学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 仏文学 プロフィール BBS


学海先生の明治維新その十七


 江戸を離れて佐倉に引っ込んでも、学海先生には天下の情勢についてかなりの量の情報が入ってきた。先生はそうした情報に接するにつけても、この国が未曽有の困難に直面しつつあることを感じないではいられなかった。
 兄の貞幹が六月五日に所用で佐倉に来た。その際先生は兄から、長州藩が諸外国の船舶に砲撃を加えたという話を聞いた。これは長州藩による攘夷政策の一環として文久三年五月に起きた外国船砲撃のことをさす。これにかかわる情報が学海先生にはかなり詳細に伝わっているのである。
 五月十日にアメリカ船が豊後水道を通過した時、長州藩が軍艦を出して砲撃し、アメリカ船は恐れをなして逃げ去った。同十四日にはフランス船が関門海峡を通過した時に、長州藩が陸の砲台から攻撃を加えた。これに対してフランス側は大いに怒り幕府に抗議、長州に反撃をすると言ってきた。また、六月一日にはアメリカの軍艦が長州藩から問答無用の砲撃を受けた。これにアメリカ軍は反撃し、長州の軍艦を砲撃して破壊、長州側は甚大な犠牲を出して敗北した。
 こうした情報とは異なった情報ももたらされた。当時横浜に居住していた佐藤泰然の話では、関門海峡を通過中のアメリカ船四隻のうち一隻は大破し、残りの三隻も長州藩の攻撃を受けて退却、海戦は長州藩の全面的勝利に終わったと言う。敗れたアメリカ側は破損した船を横浜に回し、そこで船の修理やら負傷した船員の治療やらを行ったと言うのである。
 勝敗いずれにしても、長州藩の跳ね返りによって、諸外国との関係が不穏になったのは否めない。そう先生は日記に記した。
 また七月にはいわゆる薩英戦争の情報がもたらされた。イギリスの軍艦七隻が風を避けて鹿児島港に停泊していたところ、薩摩の蒸気船三隻がいきなり砲撃を加えた。これにイギリス側が応戦して戦闘状態になったが、薩摩側は散々な敗北を喫して、死者・手負三・四千人に上ったという。
 こうした動きは、攘夷の熱狂が日本の一部で爆発したというふうに受け取れた。
 徳川慶喜が将軍後見職の辞退を申し出たのはその頃のことで、学海先生はその意味を自分なりに解釈している。
 一橋殿としてはいまさら攘夷はなりがたしと思いながらも、朝廷に叱咤されて攘夷路線を追求し、諸藩にもその旨を相談したが、なかなかうまくいかないうちに薩長による諸外国との戦争が勃発した。ついては自分には事態を収める自信がないので改めてやめさせてほしいと願った。しかし朝廷ではそれを受け入れず、今後心を粉にして攘夷に励むべし、そうでなければ朝廷自ら徳川幕府を成敗するぞと脅されて一橋殿は大いに困惑している。
 当時の将軍家茂はまだ二十歳にもならない若者で、指導力はほとんど期待できなかった。そんな中で慶喜は幕府の実質的なかじ取り役を務めており、朝廷でもそんな慶喜に幕府の代表としての役割を期待していたフシがある。だいたいそのように学海先生は読んでいたようである。その辺の事情を日記には次のように記している。
「又詔ありて、件辞職を許させ給はず。その勅文に、攘夷の義思召立せ給ひし上は、皇国焦土なるとも圧せられず。醜夷と鏖戦し祖宗への御申訳させ給ふべく思召し給ふ。幕府、勅命を遵奉するよし聞へながら、未だ分明に攘夷の沙汰なし。かかれば、黄門よく周旋して、勅命遵奉せさせ申べしと見ゆ。又、勅書中に、勅命を奉ぜざるに於ては天下の大乱となるべしと有れば、東征の議も全く詐には非ざるべし」
 これからすると、朝廷は強硬な攘夷論者が固めており、その攘夷の意志を徳川慶喜に強硬に押し付け、場合によっては東征を切り札にして言うことを飲ませようとしている、とする受け取り方を先生はしているように見える。また、そういう見方が当時の一般的な見方だったらしいことが伝わってくる。
 そこへ意外な事態が起きる。いわゆる八月政変というやつである。これは攘夷派が朝廷から駆逐された事件だが、主導したのは会津藩を中心とした佐幕派の勢力だったとはいえ、朝廷内の親幕府派の公家たちが深くかかわったとされる。どういうわけか攘夷派の孝明天皇がそれら親幕府派の公家にそそのかされて、朝廷内から強硬な攘夷派の公家とその後ろ盾であった長州の影響力を排除したのである。この事件が後に、蛤御門の変とか長州征伐へとつながっていくわけである。
 これに先立って、諸藩に京都護衛が命じられ、佐倉藩も親兵を派遣していた。その部隊からも京都の情勢が伝わってきた。その情報の多くは京都の治安が極端に悪くなったことを伝えて来た。
 八月十二日の夜、高台寺が焼討ちされ一宇残らず破壊されたが、それは当寺が松平越前守を宿泊させたことが理由だった。当時松平越前守は慶喜と共に幕府開国派の頭目と目されていたので、それに肩入れするのはけしからんとする攘夷派の蛮行だったようである。
 またきぬや宇兵衛という者の首が四条河原にさらされたが、その傍らには宇兵衛が近来外国との交易を通じて巨万の利を得たというようなことが罪状として書き連ねられていた。布屋彦四郎も同罪であるから近日首をとるべしとも書かれていたが、これには当人が大いに驚き恐れ、次の日四条河原に張り札して、今後悔い改めますから是非首だけは取らないで欲しいと懇願した。
 こうした具合で京都では官憲による治安が機能せず、不逞の輩による私刑が横行した。
 不逞の輩の最たるものは中山某が率いる天誅組というものであった。これは尊王攘夷に敵対する者を天誅と称して襲撃したものだが、その実は押し入り強盗と変わらなかった。彼らはもともと朝廷内の尊攘派と結びつきをもっていたのだが、尊攘派が八月政変で放逐された後は、運動の手がかりを失い暴徒化した。その結果京都市内で押し入り強盗を働いたり、各地の代官所を襲って気勢をあげたりしていた。その様子の一端を学海先生も仄聞して日記に記している。
「尤も甚しきは、同月十七日、大和の国五条の御代官所に打入りし事なり。かの日夕七つ時頃、甲冑を帯びて槍・長刀をふり大砲を発ち、その勢百五十騎ばかり。大将と覚しきは馬上にて、陣屋へ打入り、遂に御代官鈴木源内といふ者を斬り、手代・用人等四、五人も同じく斬り殺し、その妻子等を虜にし、租税の書類を奪ひ取り、やがてかの処を放火し、桜井といふ寺に引とり、源内の首を梟木にさらし百姓を召し集め、田租の半を免ずべし、向後租税を京師に収むべしとなり。大将は中山中納言と称せり」
 この天誅組はまもなく幕府によって鎮圧されるが、こういう連中の闊歩を許したということに、学海先生は深刻な秩序崩壊を感じたようである。
 そうした秩序崩壊は地方にも伝染し、佐倉でも押し入り強盗のはびこる事態が起きた。学海先生の日記にもその一例が記されている。
 九月六日のこと、浪士五人が佐原村の名主善左衛門のところに押しかけ、善左衛門を拉致し去ろうとしたところ、村人たちが鉄砲で脅したので浪士たちは引き下がった。だが翌日また現われ佐原の町の人数人を傷つけた。この時には佐原の人々が鉄砲で浪士二人を射殺した。殺された浪士は水戸の者で、過日イギリスが大使館として使っていた品川の東禅寺を焼き討ちした者とわかった。佐原ではこの浪士の仲間たちが仇討をしにやって来るのではないかと怒れ、戸を閉じて用心しているという。
 こんな事態に直面して学海先生は、領民が自衛できるようにと郷兵の制度を家老の平野知秋に意見具申した。平野は学海先生の意見を容れて、佐倉藩に郷兵制度を導入して、領民が普段自衛できるとともに、いざという事態に際しては藩の兵力として役立たせる政策を推進することとした。学海先生自身、元治元年に郷兵長に任命されている。
 こんな具合で、佐倉にあっても学海先生は公私に多端な毎日が続いた。しかし先生にはそんな生活が必ずしも満足できなかったようだ。とはいえ先生は、藩から本宅を与えられたうえに、鏑木の大聖院を菩提寺とした。先生は自分自身の菩提寺を持たなかったので、佐倉にそれを持つ決断をしたわけである。ということは佐倉に骨を埋める覚悟をしたということなのだろう。にもかかわらず、佐倉での今の生活は意に染まないと言っている。当時親友の立見務卿が藩校成徳書院の教授をしていたが、学海先生はその仕事と自分の代官職とを交換して欲しいと日記に書き記している。もっともこれは先生の本音なのかどうか、俄かには判断できない。
 なお学海先生が菩提寺とした大聖院は真言宗の寺で、小生の宮小路の家からは歩いて十分程のところにある。日蓮宗寺院が多い佐倉にあって真言宗の寺は珍しい。背後が崖になっていて、眼下に田圃地帯とその先に鹿島川の支流高崎川を望む景勝の地にある。
 佐倉の町は馬の背中のように細長い台地の上に展開している。この背中を含めた地一帯を昔は鏑木と称したが、背中に沿った部分に町人町ができてそれが新町と称せられたために、背中をぐるりと囲んだ部分が鏑木として残った。そんなことから佐倉の町は、鏑木という海の中に新町という島が浮かび、島の周囲が崖になっているのである。




HOME| 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである