学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その二十


 留守居役というのは、各藩が江戸屋敷に配置し、藩を代表して幕府や他藩とのさまざまな連絡・交渉にあたる職である。藩によって聞役とか公儀役とも称された。いわば藩の外務大臣といったところである。外務大臣とはいっても、交渉相手は幕府や他藩の渉外担当であるから、そんなに大げさなものではない。とは言っても藩を代表しているわけであるから責任は重い。時には藩主に代って重要な判断をしなければならないこともままある。留守居が失敗をしたことで藩が重大な危機に見舞われたこともあるらしい。忠臣蔵で浅野内匠頭が窮地に陥ったのは留守居役の手違いから来たとの指摘もある。だから息を抜けない仕事である。 
 この仕事を学海先生はどんな気持ちで引き受けたか。勤め人であるから自分で仕事を選ぶわけには無論いかないのだが、もともと外向的な性格からしてこういう渉外の仕事を苦手とは思っていなかっただろう。だがいざやってみると、仕事そのものより他藩の同役との付き合いがうるさく、さんざん嫌な目をみることになる。先生の日記を読むと他藩の同役に対する軽蔑と憤怒とがこもごも記されているので、先生がいかにその連中とのつきあいにうんざりしていたかがわかる。
 だがそれも先のことだ。辞令を受けた当初には、いささか得意な気分になったらしいことは、日記の記述からうかがわれる。時に感じて二三の絶句を詠んでいるが、そのうちの一つに次のようなものがある。
  行人職重春秋際  行人職は重し春秋の際
  辞命相競戦国時  辞命は相ひ競ふ戦国の時
  今日拝趨争末節  今日拝趨して末節を争ひ
  欲回頽俗果帰誰  頽俗を回さんと欲して果して誰にか帰せん
 役高十人扶持を給され、属吏二名、書役四名を宛がわれた。佐倉藩の留守居は二名体制になっていて、同役の野村弥五右衛門は学海先生の母方の祖父の親戚にあたっていた。この時には五十歳を超えていただろうと思われる。学海先生のほうは三十三歳の若さだった。
 早速藩から支度金として黄金百両を与えられた。うち二十両は役料の前貸し、十両は無償給付、七十両は十年返済の貸与であった。
 先生がまっ先に挨拶にかけつけたのは駒井甲斐守であった。かつて書生として面倒を見てもらった人である。その後幕府の要職を歴任し、いまは軍艦奉行並の職にあった。多忙な身ながら気持ちよく学海先生に会って、栄転を祝福してくれたうえに、貴重な意見も言ってくれた。
「いまこの国は大変な激動期に差し掛かっておる。拙者もその激動を身を以て体験したが、オヌシも藩の要職について以後さまざまな体験をすることじゃろう。お互いこの国の行末を第一に考えて奉公することが肝要じゃ」
 学海先生より二十歳以上も年長の甲斐守は父親のようなまなざしを以て学海先生の行手を思いやってくれるのであった。先生は改めて恐縮した。
 麻布の上屋敷に役宅を与えられ、三月十日に渋谷の下屋敷から移った。引越挨拶を兼ねて同役の野村弥五右衛門や属吏たちを招き宴会を開いた。先生は前途洋々たるを感じて頗る機嫌がよかった。
 しかしその機嫌はさっそく損なわれることとなった。三月十五日に同役野村弥五右衛門の家で諸藩の留守居が会合をもった。その会合は諸事議論を名目としていたがその実は酒食を楽しむことにほかならず、議論をそっちのけで飲み呆けるばかりなのであった。学海先生はその様子を末席から見て、
「小市を争ひ小例を競ひ、太平の余習になれて当世の勤めを知らず。笑ふべく嘆ずべく憎むべし」と慨嘆した。
 学海先生がこの時に出た留守居の会合とは、佐倉藩が属する帝鑑の間の諸大名の留守居たちの会合だった。帝鑑の間とは江戸城における大名たちの控室の一つで、郡山、小田原、福山、小浜、中津、大垣、松代など譜代大名たちの詰所となっていた。大名同士の付き合いはこの詰所単位で行われることが多く、留守居役の交際もそれに従った。それ故佐倉藩をはじめとして帝鑑の間大名諸藩の留守居役が組合を作って相互交流を行っていたわけである。そしてその交流の中身と言うのが、学海が嘆いてみせたような代物だったというわけである。
 三月二十二日からは諸藩の留守居役の家を訪ねて新任の挨拶をして回った。その挨拶というのも虚礼そのもので、率直さが身上の学海先生にはバカバカしい限りに映った。そのバカバカしさを先生は次のように日記に表現している。
「礼文のしげきこと、いふばかりなし。虚文にして要なきこと多く、徒に労苦するのみ。留守居職のいやしきこと、実に口舌を以て述がたし。男子たるもののすべき職にあらず」
 次の日も、またその次の日も、このバカバカしい限りの挨拶に振り回され食傷気味になった学海先生は、久しぶりに会った西村鼎にその鬱憤を吐いた。
「とにかくバカバカしい限りです。男子たるものこんなバカバカしいことで身をすり減らすのは屈辱以外のものではありませぬぞ」
「留守居役のようなものは、ずうずうしく恥を恥と思わぬものがやる仕事じゃ。そうでないと、ことがうまく運ばぬ。オヌシのような強直の者には務まらぬかもしれぬな。平野家老の目に曇りがあったのかどうか。しかしその任に選ばれたうえは、気に入らぬことも我慢してお勤めにまい進せねばなるまいて。まあ、ご苦労なことじゃ」
 西村鼎とは西村茂樹のことである。佐倉藩士で支藩の佐野藩の重役を長く勤めていた。学海とは異なって冷静沈着な人物である。その冷静な人が多少そそっかしいところのある学海先生を兄貴分らしい目で見ていることがこの会話からは伝わってくる。
 三月二十七日には、野村弥五右衛門の家に小田原藩の留守居役松下良左衛門が訪ねて来た。松下は帝鑑の間留守居組合随一の古参で、古さだけを売り物にして顔役然として威張っている。野村もその松下に気を使っている。学海先生も呼び出されて松下の前に伺候させられた。その流儀というのがまるで臣下の上司への隷従のようである。学海先生はまたもや不機嫌にならざるを得なかった。
「余その席に出づ。拝趨稽顙、宛も臣の君に於るが如く、愚夫愚婦が神明に事るが如し。余、廿年来屈せざるの膝かれ等がために屈す。実に嘆ずべし」
 その翌日は逆に松下から料亭に招かれたが、それは招待などという代物ではなく、天子・将軍への拝謁を想起せしむるような尊大なものだった。学海先生はここでも怒りを爆発させている。
「おぐらき方に坐すること一時ばかりありて、やがて諸人の盃を受く。その式甚だしく、天子・将軍より賜るが如し。威厳、仰ぎ見ること能はざるに至る」
 学海先生はしょっぱなからこの留守居役という職務に幻滅を覚えたようだ。それに対して新聞会の連中との付き合いは心楽しむものであった。また貴重な情報も聞けた。留守居の役目としては、留守居の交際から知り得た情報やそれに基づく意見を藩の上層部に挙げるのが筋であったが、学海先生の場合留守居の立場からは有益な情報が得られぬばかりか、バカバカしいかぎりの付き合いにうんざりさせられた一方、私的な付き合いといえる新聞会からは非常に有益な情報を引き出せていたのである。
 学海先生は藩の上役に留守居としての立場から定期的に情報を上げていた。相手は家老平野知秋であったり小参事佐治岱次郎だったりした。それらの情報はほとんど新聞会の人々から得たものであった。
 こんな具合で学海先生は留守居としての職務をほとんど果たしていない状況が続いていたのだったが、やがて留守居としての晴の舞台に立つこととなった。四月十四日、藩主正倫公が江戸城に登営した際に先生は野村弥五右衛門とともに御先詰をつとめたのだ。
 学海先生にとって江戸城へ登るのは初めてのことだ。身分の高いものでなくては近寄れない。自分のようなものが一生近づける見込みはないと思っていたその江戸城を目の当たりにした先生は強い感慨に打たれた。この際に城内を見物したいと思って、茶坊主を懐柔し案内してもらった。規模も装飾も想像していたよりは控え目だった。茶坊主が言うには、昔はもっと豪華広壮だったそうだ。
 下城後老中井上河内守の屋敷に赴いた。先日井上から召し出されて、相州砲台の沖を過ぎる外国船の数を調べて報告するように命じられたことがあったが、そのことでの追加報告をした。相州砲台は佐倉藩において管理・運営していたのである。
 君主の御先詰をつとめて江戸城に登ったり、藩を代表して老中と面会したりと、学海先生の留守居役としての仕事ぶりも次第にエンジンがかかってきたというところだろう。
 その夜も例の留守居組合の面々で芝浜の料亭に飲んだ。その際の印象を先生は次のように記している。
「海上の風景いはん方なし。鮮魚また他方の比あらず。志同じからん人と来らましかばと思ひしなり」
 こんな連中とではなく心安き人たちとだったらどんなにか楽しかっただろうと愚痴をこぼしているようだ。この席に出された鮮魚を先生は褒めているが、翌日は下痢をしてひどい目にあった。当時は鮮魚で下痢をすることが珍しくなかったとみえ、学海先生はしょっちゅう食あたりで下痢をしている。




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