学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その廿二


 四月二十一日、学海先生は三年半ぶりに川田毅卿を訪ねて歓談した。代官職を拝命して江戸を去ること三年、戻ってきたときには毅卿は国元の備前松山に出張していて会えなかった。それが最近江戸に戻ったというので学海先生は欣喜雀躍して訪ねたのだった。なにしろ弘庵翁の塾で机を並べ寝食をともにした仲だ。年は毅卿のほうが四つほど上だが、隔てなく心を割って付き合える。刎頸の友と言ってよい。その毅卿の顔を見ると学海先生の顔は思わず綻んだ。
「久しぶりに会えてうれしく存ずる」
「三年半ぶりになるかな」
「その間どうしておられた?」
「江戸の藩邸に居って藩校の教授をつとめる傍ら藩務に携わっておった。オヌシはどうしておった?」
「拙者は代官職を三年務めたあと再び江戸の藩邸に移り、いまは留守居というものをやっておりまする」
「それは大変なことじゃが顔が広くなったであろう。また幕府の要人ともつながりができたのではないか?」
「まだ駆け出しの身ゆえ、そんなに顔が広いと言うわけにはまいりもうさぬ。今のところ各藩の留守居役との付き合いが中心じゃが、この連中と言うのがロクでもないものばかりで、世の中の動きをよそに百年前と同じ因習にとらわれております。いやあ実にバカな連中です。そんな連中と二六時中付き合っていると、こちらまでバカになりそうじゃ」
「まあ、そう愚痴をこぼすな。そんな連中とは適当に接しておればよい。留守居の特権を生かして世の中の動きをつかむことが肝要じゃ。いまや我が国は激動の時代にある。新しい国のあり方を模索する動きがあちこちで蠢いておる。そういった動向をしっかり掴んでおかぬと取り残される恐れがある。オヌシもワシも肝に銘じておきたいところじゃ」
「ところで今回は国元に出張したということじゃが、なにか変わったことがありましたかの?」
「長州藩の動向が色々と問題になっておる。慶喜公は長州征伐に熱心であらせられるが、どうも風向きが変わってきたと見えて、将軍の意図に応える動きは弱くなっておる。逆に長州のほうが力をためておる。その背後には薩摩や土佐の後押しがあるようじゃ。かの地では土佐を仲介役にして薩摩と長州とが結びついたという噂も流れておる」
「そんなことがあるもんじゃろうか。長州と薩摩は仇同士ではなかったのですか?」
「世の中は急速に動いておる。昨日までの敵が今日は味方となり、その反対の事態も珍しくはなくなっておる。長州と薩摩が結びついたと言って別に不思議がることはない」
「しかし長州は攘夷が国是、薩摩は密貿易に熱心でむしろ開国論だと聞いておりますが」
「その長州が攘夷論を捨てて薩摩と手を結ぶことはありうる話だ」
「そんなものですかの? それでは国是も風船玉のようなものですな。その時の風の具合でどこにでも飛んで行く。節操と言うものがまるでない。君子のとるべき道ではありませぬな」
「オヌシにはまだそういうところがあるようじゃな。そういうのを守旧というのじゃ。ともあれ我が藩主板倉公は老中として長州政策に深くかかわっておられる。板倉公は長州に対して寛典論を主張しておられるが、その理由の一つに長州と幕府との間の力関係が微妙に変わったという認識があるようなのじゃ。そこでワシも駆り出されて長州をめぐる実際の動きを確かめに行ったというわけなのじゃ」
「それはご苦労なことでしたな」
「まあ議論はともかくとして、折角三年半ぶりに会ったのじゃ。盃を酌み交わしながら再会を喜び合おうではないか」
 毅卿はそう言うと学海先生を促して料亭に赴き、妓を召して愉快に騒いだ。飲み騒ぐことにかけては毅卿も学海先生も目がないのであった。
 毅卿と会うのと前後して尼崎藩の神山衛士とも会って天下の情勢を語った。と言っても学海先生には語るべき材料が多いとは言えないので、神山がもっぱら語る側に回った。神山が言うには、いまかの地では兵庫開港問題で沸騰しているということだ。兵庫開港は諸外国との条約で約束していたことだが、未だにその約束を果たしていないと言って英、仏、蘭、米四か国からの圧力が高まっていた。将軍慶喜は諸外国との衝突を恐れて開港を急ぎたい意向だが、西南の各藩には、開港のことは先帝の志ではなかったとして、開港に反対する意見が強い。神山の尼崎藩は兵庫を管轄する藩としてその動きに無関心ではおられなかった。
 管轄していると言っても兵庫開港問題は天下の大問題となっているので、尼崎藩が口を挟む余地はほとんどないに等しい。それでも藩論というものがあって、それについていろいろ意見を言うものがあった。主流は将軍慶喜の意向にしたがって開港すべきという意見だったが、なかには強力に攘夷を主張して開港を取りやめるべきだとする意見もあった。神山本人は開港論に傾いていた。
 その神山から兵庫開港問題への意見を求められた学海先生は、自分なりに考えてみたが、いまだ日本の政治のあるべき姿について自分自身確固とした信念を持つに至っていないことを痛感したのだった。学海先生が学んだ藤森弘庵翁は一応尊王派であったから、どちらかというと攘夷派の意見に傾いているところがあった。本格的な攘夷派と違うところは、彼らが異国との交際を一切拒絶して鎖国にこだわっているのに対して、弘庵翁はいまや鎖国が通用する時代ではないので、いずれは開国したうえで諸外国と対抗できるような国作りをする必要があると考えていた。そういう考えに立って海防備論を書いたのであったし、また我が国が一体となって諸外国と対抗するためには徳川幕府より皇室を中心にしたほうがよいと考えていた。しかし尊王攘夷派の多くのように討幕を考えたことはなかった。徳川家も諸大名の一員として皇室による国家経営を助けるべきだと考えたのである。
 学海先生もまた弘庵翁のこうした基本的な考え方を受け継ぐことから始めた。しかし弘庵翁とは違って、学海先生は譜代大名である堀田氏の家来である。立場上徳川幕府と一体化した行動を取らざるを得なかったし、またそのようにも振る舞ってきた。したがっていわゆる佐幕の立場に立ちながら、諸外国との関係においては緩やかに開国していくことが望ましいと考えるようになっていた。できれば徳川氏が中心となりつつ、天皇を戴いた国家の形を模索したいというのが先生の偽らぬ思いであった。そんなことがあって先生は、
「拙者には兵庫開港は避けられぬと思われる。開港を拒んだら条約違反になるし、そうなれば諸外国に我が国を攻撃する理由を与えることになる。いま諸外国と戦っても、我が国には勝てる見込みはない。今は諸外国の要求に応えながら、いずれ我が国の国力を蓄え、彼らに対抗できる実力を身に着ける、そういう方向しか見当たらぬのじゃないかな」と意見を述べた。
「拙者もそう思うところだ。ところが長州始め西南の諸藩は、いろいろと理屈を持ちだして開港の拒絶と攘夷の徹底を訴えている。それが我が国にとってどのような結果をもたらすか、この連中が真剣に考えているとは思えない。無理難題、出来ぬことを主張して問題を紛糾させているとしか思えぬのだが、その陰に連中の思惑が透けて見えもする。連中は攘夷を材料にしてひと騒ぎ起こし、それにまぎれて徳川幕府を転覆し、自分らが政権を取ることを目的にしているのではないか。どうも拙者にはそう思える」
 こう神山が言うと、学海先生も大いに首肯できるものがあると感じたのだった。その辺の思いを先生は次のように日記にぶちまけている。
「朝幕をたがはしめて己の私をとげんと謀るものなるべし。衛士と此事を語りて憤怨にたへず」
 つまり先生はこの時点では長州始め攘夷派の勢力を、私利を図るよこしまな連中を見ていたわけである。

 この時期の藩主正倫公に対する学海先生の上奏には以上のような先生の思いが込められているようである。
 ある日君前に召されて国内外の情勢を色々と聞かれたことがあったが、その中で長州征伐の是非が話題となった。慶喜はいまだに長州を警戒し、なんとかして征伐したいと考えている。それに対しては寛典論も出ているが、それについてはどう考えたらよいのか、という問いかけがなされた。それに対して学海先生は、長州は賊徒であり、その賊徒を許すにはそれ相当の理由がなければなりませぬが、いまのところそういう理由は見当たりませぬ。長州といえども徳川家の恩恵があってこそのこと、その徳川家に弓を引いたからには賊徒と呼ばれこそすれ、許すべきいわれはありませぬ、と答えたのだった。
 また兵庫開港の問題については、次のように答えた。
「慶喜公の意向通り進めるのがよろしかろうと存じまする。諸外国との条約を破れば戦争になりかねませぬし、もしいま戦争になったら我が国に勝てる見込みは乏しいかと存じます。諸外国と対等に渡り合えるようになるには、開国をしてもっと国力をつけることが肝要でござりまする」




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
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