学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その廿四


 学海先生は新聞会の人々とは懇意にする一方、留守居組合の連中には相変わらず愛想をつかしていた。職務の一環だから付き合わざるを得なかったが、彼らの愚劣さを見たり聞いたりする毎にほとほとうんざりさせられるのであった。そんな留守居のなかでも松代藩の北沢冠岳とは気が合うところがあって、仕事を離れた付き合いをするようにもなった。この人のことを学海先生は、
「北沢氏は文学ありて詩を作れり」とか
「此人、学問ありて当世の議論をよくす。留守居中の翹楚なるべし」とか言って褒めている。学海先生は学問があってしかも文学をよくするものを自分が付き合うにふさわしいと思う傾向が強かったのである。
 この北沢とは、日ごろ先生が付き合っている人々共々語らいあって浅草の劇場に芝居を見に行ったり、料亭で酒を飲んだりして親交を深めた。留守居役はどの藩でも金回りがよく、遊ぶ金には不自由しなかった。いわゆる社用族の走りと言ってよい。
 大垣藩の留守居鳥居断蔵とも仕事以外の面で付き合うようになった。その鳥居に北沢共々誘われ汐留から船に乗って浅草に行き芝居を見物したことがあった。芝居好きの学海先生にはたまらないほど面白い芝居だったらしい。先生は一絶を作ってその感動を表現した。曰く、
  簫鼓喧天繍幕開  簫鼓は天に喧しく繍幕開く
  児郎白面各登臺  児郎白面各臺に登る
  悲哀元是非関我  悲哀は元より是れ我に関するに非ざれど
  不識涙従何処来  識らず涙の何処より来るかを
 学海先生には涙もろいところがあったようだ。芝居を見て男泣きをした自分を自嘲気味に語っている。
 この晩、学海先生は芝居の興奮が冷めやらず夜を徹して飲んだのであった。
 北沢冠岳は松代藩の留守居であったから、学海先生はかの有名な佐久間象山について尋ねてみた。
「佐久間象山先生にお会いしたことはありますか?」
「いや、拙者は直接お会いしたことはない。噂を聞いたことがあるだけです。あの方は非常に規格外れのところがあって、良きにつけ悪しきにつけ色々な噂が流れておりました。拙者はそれを聞いただけですが、それでも象山先生が尋常の器でなかったことは伝わってきます。先生が京都で殺された時には、これは藩にとっての損失だと言う人もおれば、自業自得だと言う者もおりました。味方も多いかわり敵も多かったようですな。ただ藩主幸貫公の信頼は厚かったようです」
「敵が多いとはどういう事情でですか」
「あの方は自信過剰というか、傲慢のあまり人の言うことを聞かないのが一番の弱点だと言われておりました。松代には先生の肖像を描いた絵が多く残されておるそうですが、どの絵にも耳が描かれていない。人の言葉を聞く耳を持たなかったので、わざとそのように描いたのだと言われています」
「ほお、それは面白い。聞く耳を持たないから耳がないのか、それとも耳がないから人の言うことが聞こえぬのか、どちらにしても面白い話ですな」
「人の言葉を聞かぬ代わりに自分の言葉を人に聞かせるのがうまかった」
「人を説得するのがうまかったということですか?」
「そのようですね。その説得術で一躍有名となり多くの人材が集まったというわけでしょう」
「たとえばどんな人が象山門からは出ているのですか?」
「今や時の人となった勝安房などはその筆頭格でしょう。橋本佐内、吉田虎次郎、坂本竜馬なども先生の弟子だったものです」
「橋本佐内とか吉田虎次郎はどちらも安政の大獄で死罪を賜ったものではありませぬか。すると象山門は反逆者を養成する傾向があったというわけですな」
「そうとばかりは言えますまい。その証拠に勝安房のような人材も育てておる」
「勝安房殿は開国論者と聞きます。一方橋本佐内や吉田虎次郎はごりごりの攘夷論者だった。どんな具合でこの両極端が一つの門から出てきたのでしょうか?」
「象山先生自身は洋学の研究者であり、日本は開国して広く諸外国と渡り合うべきだと考えておりました。勝安房殿などはその教えを忠実に守ったといえますが、あの吉田虎次郎にしても攘夷一辺倒というわけではなかった。その証拠にペリーの船に乗ってアメリカへ渡ろうとしたではありませんか」
「ほお、そんなことがあったのですか?」
「吉田虎次郎はそのために逮捕されて監禁され、その後安政の大獄の時に斬首されたわけですから、外国に渡ろうとして死んだと言ってもよい。単純な攘夷論者ではなかったことの表われです。吉田虎次郎には妄想ともいうべき傾向があって、日本は神国として世界に冠たるべきである。とりあえずは朝鮮・清及び東南アジア諸国を侵略し、東アジアの盟主となって、いずれは世界の支配者になるべきだと訴えていた。そんな考えはただの攘夷論者からは出てきません。その考えを吹き込んだのはもともと象山先生だと言われている」
「なかなかスケールの大きな人だったんですな」
「長州の攘夷論を焚きつけたのは吉田虎次郎だと言われていますが、虎次郎はそれを水戸の藤田東湖らから学んだらしい。この男にはだから開国論と攘夷論とが節操もなく結びついているところがある。そのうち攘夷論を叫ぶようになったのはやはり時代の影響でしょう。彼は日本が世界の覇者となるには徳川幕府では役者が足りない。だから徳川幕府を倒して天皇を担いだ国家をつくり、その国家を以て世界に向かうべきだと考えていた。要するに攘夷論は彼にとって、真の目的である新国家形成に向けての手段のようなものだった。討幕の議論には攘夷が一番都合がよいと思ってそれを叫んだということでしょう。その叫び声に長州の連中が踊らされた。連中を思うように躍らせたという点では、吉田虎次郎は希代の扇動家だったと言ってよいのではないか。拙者はそんなふうに思っております」
 学海先生が学んだ藤森弘庵門は、やはり尊王をかかげて天皇を中心とした国作りを議論し、諸外国からの圧力を跳ね返すにはどうしたらよいかと考えていたが、佐久間象山のように洋学を取り入れたり、積極的に開国しようという議論はなかなか出て来なかった。日頃の学問は漢学であって、また尊王と言っても討幕に結びつくようなものではなかった。ところが佐久間象山は、尊王にはこだわらず徳川幕府のもとでも洋化を通じて国力を高めることはできると考えていたわけだ。果たしてどちらが時代の要請により応じておるのか。学海先生はいささか考えさせられるところがあった。
 坂本龍馬の名が出て来たので学海先生は先日の竹内孫介との会話を思い出した。
「坂本龍馬については先日紀州の竹内氏から聞くところがありましたが、竹内氏は坂本をかなりしたたかな男だと思っておるようです。近頃薩摩と長州とが手を結んで討幕に動き出したとの噂がしきりに流れていますが、この両者を結びつけたのが坂本だと言われています。この両者はもともと天敵のような間柄でとても手を結ぶどころではなかったのですが、それを坂本が結びつけた。やはり相当の策士でなければできないことです」
「何を手掛かりにして薩長を結び合わせたのでしょうか?」
「討幕で一致したということではないでしょうか」
「だとすれば至極剣呑な話だ」
 こんな具合で竹内孫介や北沢冠岳の話を聞くにつけても、学海先生は世の中が急速に思わぬ方向に向かって動きつつあるのを、多少は感じないではいられなかった。
 その北沢がある日学海先生に忠告してくれたことがあった。最近先生が留守居組合の中でなにかと悪口を言われ、浮き上がっているということである。その理由を北沢は色々と話してくれたが、そのほとんどは先生が傲慢すぎるとか、人に打ち解けないとか、妙に自信たっぷりに振る舞っているとか、どれも噴飯に耐えないようなものであった。それでも学海先生は人に憎まれるのは君子のあるべき姿ではないと思って反省するところもあった。もっとも反省したからといってすぐなおるというものでもなかったが。

 その頃、学海先生は寺社奉行松平左衛門尉に召し出された。用件は成田山新勝寺のことについてだった。成田村ではこのたび新勝寺の住職交代について内済の届け出を行ってきたが、佐倉藩としても異議はないかという照会であった。この件については既に成田村から佐倉藩へも内申があり、これまでの慣例に従ってのことなので、とりたてて異存あるべくもないと考えていた。そこで藩に戻って再確認したうえ数日後に奉行所を再訪し、藩として異存ない旨を寺社奉行に伝えた。学海先生としてはこれで一件落着と受け取った。
 しかしその数日後に今度は深川扇橋の土屋侯から呼び出された。赴いてみると新勝寺の住職交代の件について話を切り出された。新勝寺は京都の嵯峨大覚寺とつながりがあり、大覚寺では新勝寺を末寺のように考えているらしい。それで今回新勝寺の住職交代に当たっては当然大覚寺の意向を尊重すべきであるのに、新勝寺側では大覚寺を無視して一方的に住職を決めたのはけしからぬ。こう大覚寺側から言ってきたが佐倉藩としてはどうしてくれるかの、という内容だった。
 この件についてはすでに寺社奉行もかかわって決着済みのことであったし、だいいち土屋侯がどのような資格で口を突っ込んできたのか、学海先生には納得がいかなかった。不満があるなら寺社奉行に訴え出ればいいのをわざわざ関係のない有力者に手を回すのは実に許せぬ僻事だと学海先生は感じざるをえなかった。その憤りを先生は次のように日記に記した。
「嵯峨大覚寺殿坊官野路井大蔵とかいふ奸人、富家の人ににげなく欲深く奸智に長じたるものなれば、とかくに新勝寺を我支配下のものとなして利を得んと謀り、かの賊禿等と通じて支節を生ずること多し。実ににくむべきの甚だしきもの也」




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