学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その卅一


 お盆がやって来た。小生の両親は一昨年に相次いで亡くなった。二月に父が入院先の病院で亡くなり、六月にはやはり病気で入院していた母が亡くなった。父が亡くなったときに、妹と一緒に母のもとに行きその死を報告したら、母はおいおいと声を出して泣いた。そしてそのわずか四か月後に自分自身が亡くなったのであった。ほぼ一時に両親をなくして、小生は心のどこかに穴が開いてしまったような気がした。
 父が亡くなったときに新しい仏壇を買って宮小路の家の六畳間に据えた。その仏壇は母が死んだ後もそのままの場所に据えたままにしておいた。今でもその場所にあって両親の位牌を収めてある。昨年はお盆の十五日に袋町の菩提寺から住職に来てもらって、この仏壇に向かってお経をあげてもらった。今年は二年目のお盆なので住職は呼ばず、荊婦と一緒に寺へ墓参りをしてすませた。その代りと言ってはなんだが、住職に勧められて施餓鬼会の日に鹿島川に灯篭を流すことにした。
 鹿島川の灯篭流しはお盆の行事として施餓鬼会の日に毎年行われていた。それに小生は両親それぞれの名前を記した灯篭を二つ流してもらうことにしたのだった。その行事に荊婦は行けないというので、小生はあかりさんを誘った。すると、私もその行事には関心があっていつか見てみたいと思っていたのよと言って、一緒に見に行くと言ってくれた。
 そんなわけで八月二十三日の施餓鬼会の当日、我々は京成船橋駅で車内合流して夕方佐倉駅に着いたのだった。駅から会場の鹿島橋までは一キロ半ほど、ゆっくり歩いても二十分ほどで着く。会場につくと既に大勢の人々が集まっていて、水面に浮かべられた夥しい数の灯篭に見入っていた。灯篭の灯りは夕闇が深くなるにつれてますます明るさを増していった。
 菩提寺の住職のお経をあげる声が聞こえた。そのお経の声が途絶えると、灯篭を束ねていた紐が解かれ、バラバラになった灯篭が思い思いに川を下り印旛沼の方向へと流れていった。ゆったりとした川の流れに乗って明るく輝いた灯篭が揺らめくように動く姿は幻影を見ているかのようだった。小生は両親の灯篭はどこを浮かんでいるのだろうと身を乗り出して探したが、間の距離が遠すぎてそれと見定めることができなかった。そこで小生はこれらの灯篭に乗った両親の魂が手を携えながら天国へと昇っていくように祈るよりほかはなかった。
 行事が一段落したところで小生はあかりさんを宮小路の家へ誘おうかと思ったが、彼女がその誘いをどう受け止めるか不安があったので、誘うことはやめ、会場の付近にあるウナギ料理の店に入って夕食を共にすることとした。
 店に入って席に着くとビールと小料理を数皿注文した。今宵のあかりさんは藤色ベースのプリント柄ブラウスとターコイズブルーのスカートをはいていた。スカートの丈は膝の下まであった。そのいでたちで椅子に座り小生の目を真正面から見据えながら大きな口を横に広げて微笑んだ。彼女は微笑むときにも大げさに見えるのだ。口以上に大げさなのは目の表情だった。その目で小生を見据えながら、あかりさんは張りのある声で語りかけてくるのだった。
「あなたのご両親はもともと佐倉の人ではなかったわよね?」
「うん、父親は会津の人で、母親は薩摩の人、薩摩おごじょと言うやつさ」
「あら、薩摩と会津って折り合いが悪いんじゃなかったの?」
「うん、戊辰戦争の時に会津は官軍に総攻撃され全滅したんだけど、その時の官軍の主体が薩摩だったと会津の人は信じているからね。だから会津の人にとってはいまだに薩摩は親の仇ということになっているらしいよ」
「その親の仇がどうして結婚することになったわけ?」
「ロメオとジュリエットじゃないけれど、愛は恩讐を乗り越えるというじゃないか。うちの両親の場合も愛の深さが過去の恩讐を乗り越えたということじゃないかな」
「あら、ロマンチックなのね」
 そう言いながらあかりさんは口を大きくあけて深呼吸するのだった。
「会津の人はいまでも薩摩を恨んでいるのかしら?」
「なぜそんなことが気になるのかい?」
「人間って他人から蒙った迫害をそんなに簡単に忘れられるものではないと思うから、実際に薩摩から迫害を受けた会津の人たちがどれくらいそのことにこだわっているのか知りたいと思ったのよ」
「明治・大正時代いっぱいくらいまでは強烈な反薩摩意識があったと聞いているけど、昭和の今ではそうでもないんじゃないかな。明治時代には説教節の薩摩太夫が会津入りした時に名前が悪いと言って袋叩きになり、それ以後若松太夫と名を改めたというような話も伝わっているからね。会津人の反薩摩感情は相当のものだったらしいよ」
「でも、あなたのご両親が出会った時にはお互いに過去のことは気にしなかったということかしら?」
「さっきの話じゃないけれど、愛が過去の恩讐に打ち勝ったということじゃないかな。もっとも、戊辰戦争の時に会津を攻撃した総隊長は土佐の板垣退助だったんだ。その板垣が恨まれないで、薩摩の西郷さんが恨まれた。西南戦争が起きた時には多くの会津人が参戦し、西郷軍と戦っている。そして西郷さんが死んだときには、親の仇を討ったと言って涙を流して喜んだというから、西郷さんも損な役柄を負わされてしまったわけだよ」
「あなたのその薩摩びいきはお母さんの影響なんでしょ?」
「そうかもしれないね」
 そのうちウナギが出て来た。店の主人が言うには印旛沼でとれた極上の一物だそうだ。昔は印旛沼で沢山うなぎがとれたのだが今ではそんなに取れなくなってしまった。農薬の影響だろうと言うのだが、それでもこの辺のうなぎ屋の商売が成り立つほどにはまだとれるのだと言う。そのウナギのかば焼きを大きな口をあけて食いながら、あかりさんは話題を変えた。
「お盆に死者の弔いをしていたら、最近うちの学校で自殺した生徒のことが思い浮かんできたわ」
「なんでまた自殺なんかしたのかね?」
「いじめられて絶望したらしいのよ」
「子どものいじめがいまだに盛んなことは聞くけれど、高校生の間でもやはりあるのかい?」
「けっこうあるのよ。なかなかなくならないみたい」
「僕らが高校生の頃もいじめはあったな。うちのクラスに佐原の高校から転入してきたのがいたんだけど、そいつがクラスのいじめの対象になったんだ。高校生のいじめだから半端じゃない。そいつはおそらく命の危険さえ感じたのだと思うんだが、じっと我慢していたよ。僕はそのいじめには加わらなかった。傍で見ているとだんだんエスカレートする様子なので、いじめているやつらに、弱い者いじめをして何が面白いんだ、と言ってやったが、それで収まるものではなかった。いじめられていたやつがその後どうなったか、ちょっと思い出せない。僕自身あまり気にしてなかったからね」
「いじめはいじめられる方に原因があるんだと思ったことはない?」
「そこまでは思わないが、なぜ反発しないでいじめられっぱなしになっているのか不思議には感じたね。いじめってやつは、相手が反発しないだろうといじめる側が思うからエスカレートするんで、相手が反発すればひるむものだよ」
「でももともと弱いからいじめられるのだから、その弱い人に向かって反発しろというのは少し酷だと思うわ」
「そうかもしれないね。僕らが小学生の時もクラスにいじめられている子がいたよね。そういう子はいじめられやすくできているように思うんだ。一部の子がいじめているのを見るとそれがほかの子に感染してみんなでよってたかっていじめるようになる。実際この僕もそのいじめの輪に加わって一緒になって弱い者いじめをしたものだよ。今から思うとなんて卑劣なことをしていたかと赤面するばかりだけれど、その当時の子どもの身になってみれば、ごく自然にいじめの輪に加わっていただけなんだ」
「集団心理ってのでしょう? 怖いわよね。そういう集団心理がいじめを拡大させ深刻化させるんだわ」
「そう言えるね。僕は思うんだが日本の社会は同調圧力が異常に高いじゃないか? 誰にも同じ規範を受け入れてそれに同調することを求める。意識的にせよそうじゃないにせよその同調のできない者、しない者は、異分子として排除され敵として攻撃される。これは日本社会の体質に根差したことだからなかなかなくならないと思うよ」
「そういう話を聞くと、なんだか憂鬱になるわ。でもあなたの言ったその日本社会の体質を醸成するにあたって学校教育が大きな役割を果たしているわけよね。私も学校教育の当事者として責任を感じるわ」
「君一人が責任を感じてもどうなるわけじゃないよ。やはり幼児教育の現場から個人の自主性を大事にする流れが作られなくちゃね。今の幼児教育はそれこそ集団主義教育といってよい。子ども一人一人の個性は軽視されて、なにがなんでも集団の規律に同調させようとする圧力を小さな頃から子供にかけている。子どもはそれを自分なりに内面化して集団に同調しないものは悪だと思うようになる。いじめってやつはそうした心的傾向が表面化したものにすぎない。だから高校の教育現場にいる君が一人で頑張っても暖簾に腕押しだと思うよ」
「一層憂鬱になりそうだわ」
 こんな具合に今宵の会話は多少深刻な色を帯びてしまった。折角のデートなのだから、もうすこし楽しい会話に誘導すればよかった。
 食後我々は京成佐倉駅まで歩き、そこから京成電車に乗って、船橋駅で別れたのであった。




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