学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その四十三


 明治二年の学海先生の主な活動は公議人としてのものである。公議人は木戸孝允の肝煎りで作られた公務人の制度が端緒となり、やがて公議人と名称を変えられていたものだ。だが、木戸が言うところの万機公論の器とは名のみで、ほとんど活動らしきものはしていなかった。活動を本格化させるのは明治二年三月以降のことである。だがそれ以前より、公議人同士の情報交換などを通じて、一定の活動は見られたようである。
 そもそも木戸が公務人制度を作ったのは、先にも触れたとおり、五箇条の御誓文にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」の精神を具体化させるものというのが建前だった。しかしこの制度の短い歴史に中で、その精神が実現されたことはなかったと言ってよい。下から民意を汲み上げると言うのがそもそもの名目だったのが、実際には上意下達の手段に使われたと言ってよい。
 その上意下達の最初の標的は諸侯による版籍奉還であった。公議人が各藩の重役からなっていることに着目した新政府は、藩籍奉還の意義を公議人を通じて諸侯に徹底し、諸侯が政府の強制によってではなく、自主的に版籍奉還するように仕向けようとした。この筋書きを書いたのはまたもや木戸孝允だった。
 明治新政府を武力によって誕生させた功労者は西郷隆盛だったわけだが、西郷は維新後鹿児島に引っ込んで、政治の表舞台から退いてしまった。その間隙を縫うように木戸が前面に出てきて、新しい国造りの方向を領導した。その方向とは従来の封建制度を廃して中央集権的な近代国家を作り出そうというものであった。
 木戸は版籍奉還を円滑に実施するには王政復古を推進した薩長土肥四藩の意向がカギになると考えた。これら諸藩の反対を受けては実施はむつかしいだろう。そこでまづこれら四藩に版籍奉還を納得させたうえで、その威光を借りて残りの諸藩に版籍奉還を迫るという二段階作戦を立てた。当面は薩長土肥四藩の藩主たちを版籍奉還に向けて説得する必要があった。長州藩主の説得は木戸自らあたり、薩摩は大久保利光、土佐は後藤象二郎、肥前は大隈重信があたることと打ち合わせた。
 藩主たちの説得に当たっては、木戸がその説得材料を用意した。その材料とは、後に版籍奉還の上表として結実する次のような文章であった。
「ソモソモ臣等居ル所ノ天子ノ土、臣等牧スル所ハ即チ天子の民ナリ、安ンゾ私有スベケンヤ、今謹テ其版籍ヲ収メテ之ヲ上ル、願クハ朝廷其宜シキニ処シ、其ノ与フベキハコレヲ与ヘ奪フベキハコレヲ奪ヒ、凡ソ列藩ノ封土更ニ宜シク詔命ヲ下シ、コレヲ改メ定ムベシ」
 この文章には、いったん藩籍を朝廷に差し出した後で、それを朝廷が再配分するという考えが示されている。これを読まされた四藩の藩主たちは、版籍奉還を通じてかつての朝敵の領地が削られ、その分自分たちの領地が増えるものと勘違いして、版籍奉還にもろ手を挙げて賛成したのである。しかし現実にはそうはならなかったわけで、その点では彼ら藩主たちは家来に騙されたということになる。もっとも彼らの欲の皮が彼ら自身を欺いたと言ってもよいのではあるが。
 学海先生は年明け早々公議人の同輩やかつての留守居仲間と頻繁に会合して世の中の流れをなるべく把握しようとつとめた。いまや国家有用の人材になったという自負を持った学海先生は、自分の力で幾分なりとも国作りに貢献出来たら、名誉これに過ぎるものはないと考えて精力的に動いたのである。
 公議人の会合では比較的早い時期から版籍奉還が話題に上った。学海先生はこれを「封建を変じて郡県にせんとの説」と受け取った。つまり徳川時代以来の封建制度が廃止され、それに代わって中央集権的な国家を作ろうという動きだと認識したわけである。その点では薩長土肥の藩主たちより目がきいていたと言える。しかし学海先生自身はこの説に大いに反発した。先生は言う、
「郡県の説よしといへども、諸侯の臣久しくその家に事へて臣たりしに、もし郡県の議行われば、尽くその家を去り肩をその主に並べて朝に列するに至らんか。これ忠臣義卒の忍びざるところなり」
 これを読む限り、学海先生がいまだに古い身分秩序観念にとらわれていたことが明らかにわかる。先生はこの問題を政治の問題としてよりは道徳秩序の問題として捉え、郡県制度が人心を頽廃させると感じ取ったのである。
 三月十二日に公議所が正式に開催された。土佐中納言と秋月右京亮が共同議長を務めた。最初の議題は諸侯の藩籍奉還だった。議長に指名されたものより版籍奉還の意義についての説明があり、その後で議長より、各公議人が藩論を版籍奉還に向けてまとめるべき旨の依頼があった。
 先生は早速藩に戻って版籍奉還の趣旨を説明し、藩としての方針について議論するように求めた。先生自身は先に述べた事情から版籍奉還には反対だった。これに対して西村茂樹は賛成だった。西村はこの問題に限らず、日本が近代国家として発展するためには、封建制度を抜本的に改めて近代的な国家を作る必要性を自覚していた。その国家の形は国民が一体化した統一国家というべきものだが、木戸が思い描いていたような専制的な集権国家ではなく、国民の政治参加を前提とした西洋風の国家像であった。
 西洋風の国家像という点では、西村の友人福沢諭吉も同じような考えを持っていた。学海先生はある時この福沢と会って、これから日本がとるべき国家像について議論したことがあった。福沢はよくしゃべる男だった。おしゃべりは学海先生も得意だったが、その学海先生もかなわないほど、よくしゃべった。立て板に水とはこの男のことだと先生は思った。
「貴殿の考えによれば、四民平等が天の本来あるべき姿ということになり、忠義孝悌は唾棄すべきものだということになる。それでは世の中の秩序も人間の交際も成り立たないではないか」
 福沢の議論を危ういと思った学海先生はこのように言って福沢を批判した。
「そんなことはござらん。その証拠に西洋各国はみな四民平等の建前が普及しており、身分を超えた自由闊達な議論が国を繁栄させる原動力になっており申す。日本もそうならねば西洋各国に太刀打ちができ申さぬ」
「西洋各国に太刀打ちするために封建秩序を解体すべきだと言われるか?」
「さよう、国あっての国民でござる。国が滅びては国民も成り立ち申さぬ。また逆に国民がそれぞれ自立しておらねば国も成り立ち申さぬ。自立した国民を作るには封建道徳は邪魔になりまする」
「封建道徳と申されるが、儒教の教えは人間の本性に根差したもので、人間がおるところどこでも通じる原理じゃ」
「西洋では儒教道徳など通じてはおらぬばかりか、それとは全く逆の思想が人々を導いてござる。その思想とはひとことで言えば四民平等であり、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずという信念でござる。我ら日本人も又この信念を持たねばなりませぬ」
「そんな信念を皆が持つようになったら、世の中の秩序は乱れ、人心が頽廃するのではないか?」
「いやそんなことはあり申さぬ。西洋の国がそれで以て繁栄していることから、それは明らかでござる。西洋に対抗して強い国を作り、進取気鋭の精神に富んだ国民を養うには、封建道徳が邪魔なのでござる。封建道徳は拙者にとって親の仇と言うべきものでござる。また、この国にとっても仇と見なすべきでござる」
 こんな調子で二人の議論はかみ合わないのであった。今話題の藩籍奉還についても二人の意見は全く逆方向を向いており、学海先生は版籍奉還に反対なのに対して、福沢諭吉はそれが日本の近代化を促進する限りにおいて、その進歩的な面を評価するのであった。その福沢と同じ意見を藩の同輩西村茂樹も抱いているのであった。
 福沢のことを学海先生は、日記の中に、
「福沢はきこゆる洋学生なり。議論極て僻陋にて、きくもうるさし」と書いているから、よほど気に障ったのだろう。
 結局佐倉藩は藩籍奉還の方針を受け入れることにした。そうせねば世の中の動きから取り残されて孤立するという判断からだった。学海先生は最後まで強硬に反対したが、一藩士の身では言論に限界があった。その学海先生の激情的な議論を聞かされた藩の重役たちは、
「依田七郎も困りものじゃ、日ごろから人の意見に耳を傾けず、自説に執着する傾向が強かったが、このたびはその悪い癖が一段と出ておるようじゃ。これまでも時流に逆らう主張をして藩を危機に陥らせそうになったことが幾度もある。今回もその二の舞になりかねぬ。七郎の言うことには気をつけねばならぬ」と思うのであったが、それだからといって学海先生を重役から解任しようとまではしなかった。佐倉藩の人間関係は、水戸藩とは大違いで、暖かいものがあったのである。
 三月二十八日に新天皇が再び東京へ下向し、以来東京が日本の首都になった。
 当日は天皇の行列の一行が東京市内を練り歩いて東京城に向かった。東京城は皇居と言い換えられた。その皇居の近くにある紀州藩の上屋敷前で天皇の一行を迎えた学海先生は、天皇の駕が眼の前を通り過ぎる時、地面に深々と額づいたのであった。




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