学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その四十五


 版籍奉還問題は明治二年六月十七日に薩長土肥以下の諸藩主が上表したことでけりがついた。これに伴いすべての藩について版籍奉還が行われた。当然佐倉藩も藩籍奉還を進んで行った。しかし藩がすぐになくなったわけではない。藩主は知藩事に任命され、従来行っていた藩内の統治を当面は引き続き行うべきこととされた。
 版籍奉還を通じて実質上日本全土の統治権を掌握した新政府は、七月八日に大がかりな官制の改革を実施した。これは古代の統治機構を復活させたものと言ってよかった。すなわち律令制の形式を採用し、祭政一致の原則のもとに神祇官を太政官の上位に位置付けた。王政復古と版籍奉還によって政治権力を掌握した天皇が、祭政一致を通じて精神的にも国民を支配する体系を整えようとしたのである。
 中央における官制改革と並行して地方にも行政組織の改革が求められた。従来の家老・年寄などに代って大参事、権大参事以下の職を置き、また門閥によらず広く人材を登用することが求められた。佐倉藩においては、平野知秋、西村茂樹の両重役が大参事となった。学海先生は小参事を拝命した。
 官制改革に伴い公議所は集議院に改組され、公議人は集議院議員と呼ばれるようになった。学海先生も引き続き集議院議員を拝命した。
 集議院においてまず議題になったのは通貨問題であった。この時点での通貨は徳川時代に通用していた金銀銅のほか、政府が臨時に発行した官札と各藩ごとに発行した紙幣が無秩序に流通していた。これは国内的にも混乱の原因となったばかりか、諸外国にも不評であった。諸外国は政府による統一貨幣の確立を求めた。それに合わせて従来貿易等を通じて取得した金銀などの貨幣を政府の統一貨幣、正貨と交換するように求めた。
 諸外国の要求に対して新政府は外国人所有の貨幣を、悪貨、贋金を問わず一対一で正貨と交換することを約束させられた。外国人にはこれを見越して大量に悪貨を取得し、それを正貨と交換することでぼろもうけした者もあった。
 新政府はまた太政官札を発行し、それを民間所有の金銀と交換する措置をとった。これは印刷した紙で以て金銀を巻き上げるもののように人々の目に映った。とりわけひどいやり方だと思われたのは、百両分の二分金を太政官札三十両と交換し、しかもその交換期限以後は二部金の流通を禁止したことだ。大阪の商人たちはこれを政府による民間財産の強奪だと言って非難した。
 非難された政府は、これは一時的な措置で、いずれ金銀を用いた正貨を発行する。その節には太政官札を正貨と取り換えてやるのであるから、強奪とは言えないと言って反論したが、その反論をまともに受け取るものはほとんどいなかった。
 そんなわけで改組後の集議院においてはこの通貨問題が最大の議題となった。学海先生は大蔵卿の言うことがなかなか納得できなかったので、先頭に立って政府を追及した。
「聞くところによれば、外国人は邦人との取引で取得した贋金をあたかも正貨の如く流通させよと迫っているそうじゃが、それは本当のことか?」
「そのような要望は受けてござる」
「で、どのような措置をとるつもりか?」
「贋金を使われるのは困り申すので、外国人の所有する二分金と一分銀を、贋金の如何を問わず、額面通りの価格で正貨と交換することといたしまする」
「贋金を何故正貨と額面通りに交換するのじゃ?」
「贋金といえども国内にて流通するものについては政府が責任を負わねばなりませぬ」
「それで、贋金を政府の責任において正貨と交換するというわけでござるか?」
「さようでござる」
「だが外国人のなかには贋金や悪貨を安く買い集めてそれを額面通りの価格で正貨と交換しようとするものもあるのではないか?」
「あるいはそうかもしれませぬが、これはわが国の信用にかかわる問題故に、始めから詐欺とわかっている以外は、相手の言い分を聞かざるを得ないというのが実際のところでござる」
「贋金と正貨との交換は邦人についても適用するのか?」
「邦人については別途措置を考えてござる。金銀の正貨が十分な量ではないので、臨時に太政官札を発行し、それで以て市場にある二分金及び一分銀と交換いたしたい。交換比率はいまのところ画定しており申さぬ。いずれその交換によって集めた金銀を材料にして正貨を鋳造し発行いたしたい。その節にはその正貨と発行済みの太政官札を交換したいと存ずる」
「噂によると、その太政官札三十両を以て市中流通の金銀百両分と交換するつもりで政府はいるらしいということじゃが、これは本当でござるか?」
「まだ確定したわけではござらぬが、あるいはそうなるかもしれませぬ」
「もしそうなるとすれば、三のものを以て十のものと交換することを政府が民に強いることとなる。これは民の財を横領するようなものではござらぬか?」
「横領とは言いすぎじゃ、口を慎しみなされ」
 こんな具合に議論はなされたが、その議論が政府の政策に大きく影響したという形跡はない。
 その時の大蔵卿は大隈重信であったが、学海先生はこの大隈と議論していると、なんだかもて遊ばれているような気持ちになった。こちらが何を言ってものらりくらりとかわし、正面から答えようとしない。それでいて自分のやりたいことは着実に進めて行く。この通貨問題にしても、集議院に諮ったのはその意見を重んじるためではなく、一応広く公論を聞いたという体裁を整えるためではないか。先生にはどうもそのように思えるのだった。
 そもそもこの大隈という男は肥前の出身であるが、なぜここまで出世をしたのか、それが先生には腑に落ちない。肥前藩は徳川幕府との戦いに大きな役割を果たしたわけでもなく、また王政復古に顕著な貢献をしたわけでもない。薩長の尻馬に乗って日和見を決め込んでいただけではないか。それがどさくさに紛れるようにして政治の表舞台に躍り出て来た。見るところこれは、彼らが権謀術数に優れていたためではないか。さしづめ大隈などは権謀術数を掌中に欲しいままにする人物なのだろう。まだ三十を過ぎたばかりというのに、既に老人のような狡猾さを発揮しておる。そう学海先生は大隈を評価したのだった。
 貨幣の問題と並んで大きな議題となったのは陸海軍の整備と宣教師を置いて民間を諭示すべき政策だった。長州は陸軍を整備して政府としての軍事力の整備をすべきだと主張していた。薩摩は陸軍については各藩の藩兵を利用すればよく、国としての軍事力は海軍の増強によるべきだと主張した。陸の長州、海の薩摩という対立構図が早くも持ち上がったわけである。
 宣教師を置いて民間を諭示しようとする政策は、新官制に設けられた神祇官の職掌を実現しようとする意図に出たものだった。祭政一致の原則を掲げたこの制度は神道を以て国民教導を図ろうとし、その実行部隊としての宣教師の役割に期待したのである。これに対して学海先生は神道が民間の思想に介入することを喜ばなかった。学海先生に限らず、東国の人々には神道を敬う気持ちが薄く、ましてや神道を強制されることには違和感があったからだ。
 宣教師の議論と並行して漢学廃止の議論も行われた。これには学海先生も大いに反対した。政府は漢学を廃止して洋学を普及せしむるというが、そもそも学問を政府が強制するのはおかしい。ましてや儒学を中心にした漢学は長らく我が国の道徳秩序を成り立たせてきたもので、わが国が諸外国に優れたものはひとえにこの点に基づいている。それを廃止して洋学を普及せしむるというのは、邦人を化して夷狄の走狗とするものだ。つい最近まで攘夷を叫んでおった輩が、自から権力を手にするや真逆のことを主張する。実に無節操な連中だと学海先生は思わずにいられなかった。
 こんな具合で学海先生は頻繁に集議院に赴いて国事を論じる多忙な日々を過ごしていた。ある日馬に乗って集議院に向かう途中一人の武士を馬の足で蹴飛ばしてしまった。怒った武士は学海先生を罵しった。
「馬で吾輩を乗り倒すとはけしからぬ。名を名乗れ」
 罵られた先生はすぐに馬から下りて非礼をわびたが武士は納得しない。大音声を上げてまくしたてた。
「吾輩を誰だと思っておる? 長州藩士藤坂清四郎というものぞ。貴様如きに馬に乗り倒されて退くわけにはまいらぬ。成敗してくれる」と大変な剣幕である。
 学海先生はここでかかずらってはまづいことになると思い、その場は平謝りに謝ったうえで、長州藩の知人にとりなしを依頼した。
 つけても学海先生は、いまどきの薩長人の羽振りのよさに辟易するほかはなかった。この連中は新政府の官職を独占して高禄を食み、権力をかさに着てしたい放題に振る舞っている。自分らの気に入らぬものを見ると力づくで攻撃する。まともに相手にしていたらどんな目にあわされぬとも限らない。
 まあ言って見れば薩長は徳川幕府を倒して天下を手にしたわけだから、多少の利得があってもよいだろう。足利も徳川も天下を取った時には、その一族郎党が我が世の春を謳歌した。それと同じで薩長人が我が世を謳歌するのは時代の勢いというものだが、それを乱用した挙句に民心と離反するようでは、この国の末はあやうい。そんな風に学海先生は思わないではいられなかった。




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