学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その四十九


 その頃学海先生は書肆で弊休禄という書を得た。彰義隊を組織した幕臣天野八郎忠告が上野戦争のことを獄中で著したというものである。上野戦争の時先生は京都にいて、その様子を詳しく知ることができなかった。この戦いは天下分け目の戦いとまではいかないが、幕府方と官軍とが江戸市中で正面衝突した大規模な戦いだ。ここで彰義隊があっけなく敗北したことで、幕府の落ち目が誰の目にも明らかになった。学海先生は先日その戦いの跡を上野の山で見たばかりだったので、彰義隊の隊長が獄中で書いたというこの書物に大きな興味を覚えたのである。
 天野八郎が立ち上げた彰義隊には旗本の倅や浪人たちなどが次々と入隊し、一時期その勢力三千人とも言われた。江戸に入って来た官軍の田舎侍たちが強盗殺人始め乱暴狼藉の限りを尽くすので、江戸市民は彰義隊の活躍に期待した。イロを持つなら彰義隊と言われたのは、江戸市民のそうした感情の現れである。しかし彰義隊はあっけなく敗れた。戦いが始まる前に逃げ去る者が続出し、その数一千人にまで減少した。戦いが始まってからもほとんどいいところがなく、わずか一日にして壊滅した。天野八郎は陣中を駆けずり回り、味方兵士を鼓舞して回ったが、敗色濃厚で士気は上がらない。逃亡する者が続出する。天野は自分自身が先頭に立って吶喊を叫んだが、振り向いたら誰もいないありさまだ。天野は「徳川氏の柔極まるを知る」と叫ばずにはいられなかった。
 結局天野も戦場を退却し、本所の商家に隠れたのであったが、ついに発見されて縄にかかり大名小路の豚箱にぶち込まれた。そこで天野は拷問を受けるかたわらこの弊休禄を書いたというのである。天野は獄中にあること半年足らずにして死んだ。その死にざまを思うと、世の中の本流に逆らうことがいかに困難か、学海先生は改めて思わずにはいられなかった。
 
 昨年の暮から休会していた集議院が四月から再開された。学海先生が参院してみると征韓論がしきりに交わされていた。
 新政府は王政復古のことを朝鮮政府に告げ新しく国交を結ぶよう求めたのに対して、朝鮮政府は日本国書の書式が従来と異なる上、文中「皇」とか「勅」とがいう字が見えることを非難して、それを受理することさえ拒んだ。これはわが国に対する著しい無礼であるから征討すべきであるというのが征韓論の趣旨であった。
 征韓論を唱えたのは木戸孝允だった。歴史の教科書では明治七年ごろに西郷隆盛が唱えた征韓論が有名であるが、木戸はそれに先立ち明治二年頃に声を大にしてそれを唱えていたのである。
 木戸が征韓論を唱えた要因はいくつかあげられる。国内に盛り上がりつつあった武士の不満や民衆一揆の動きに対して、国内から海外へ目を向けさせることで危機を回避したいという思惑もあっただろう。だがそれ以上に木戸本人の政治的思想にかかわる部分もあったと考えられる。木戸は吉田松陰の影響を強く受けたと言われるが、松陰は海外への侵略を強く主張していた。当時の日本にとって海外とはとりあえず清とか朝鮮をさしたので、海外侵略の主張がまず征韓論の形をとるのは自然だったと言える。
 こういう考え方には、学海先生は賛同しなかった。清は日本にとっては礼儀を教えてくれた先達の国であり、朝鮮は日本とは儒教を通じて相親しむべき間柄である。それらの国を侵略しようというのは、学海先生にとっては著しく礼儀に反したことだった。
 こうした侵略的な考え方が広がった背景には国学の興隆もあった。国学の創始者本居宣長は日本は世界の王として世界を支配する資格があると唱えていた。その考え方を俗流国学者たちが採用して、頻りに対外侵略を正当化しようとしていた。学海先生はそういう流れに対して強い違和感を抱いた。
 ある時学海先生は集議院の書記と論争になったことがあった。その書記は神道にかぶれていたのだったが、その神道の議論を以て日本は世界の王たるべきだと主張した。
「我が国の開け始まりは外国より先のことでござる。されば地球のうちに王たるべき国は我が国をおいてほかにはござらぬ」
「我が国が外国より先に開け始まったと申されるが、それは何を根拠に言われるのか?」
「記紀にそう書いてござる」
「記紀はわが国の開け始まりがどのようであったかについて書いておるが、外国より先に開け始まったとは書いてござらぬ」
「いや、書いてござる。と言うのは、わが国はイザナギ・イザナミの二神がこれを作ったとなっているが、これは天地の間で初めて現れた国ということを意味するのでござる。また、太陽はわが国の神即ち天照大神の化身であるが、その太陽のおかげで世界中が作られたことになって居る。これらのことからして、我が国が世界で初めて開け始まったのは明らかなことでござる」
「それがしが思うには、世界で始めて開け始まったのは漢土でござる。我が国はその漢土から儒教道徳を教えられ、また漢土を通して天竺から仏の教えを伝えられた。そうではござらぬか」
「それは僻事を申すというものでござる。記紀がいうとおり我が国が世界の開け始まりであることは間違いござらぬ」
 こういう考え方は学海先生にとっては痴愚蒙昧の意見としか思われなかったが、こういう考えを真面目に主張する輩が最近は非常に多い。これは王政復古を利用して神道家たちが勢力拡大の野心を抱いて流布させているもので、内実は荒唐無稽なものだ。だがそんな荒唐無稽なものでも権力と結びつくと恐ろしい力を発揮する。そう学海先生は考え、彼らに反対する意見を言うと身が危うくなるかもしれぬと恐れて、深く追求することは控えたのであった。 
 集議院の議題は兵制と藩政が主なものであった。
 兵制については、諸藩の兵制を整理し、全国的に統一したものにしようとの議論が中心となった。その核心は、従来のように武士に兵力を独占させるのではなく、兵士を広く庶民から集めることで、武士は必ずしも生まれながらの兵士ではないということを明確にすることだった。これが徹底すれば従来の武士身分が兵士と言う職能から分離されることになる。これは学海先生にとっては、ショッキングなことであった。学海先生はいまだに大小二刀を腰にして歩いているが、それは武士としての己の矜持をあらわすもので、その矜持は自分がいざという時には兵士として戦うべき職分を帯びているという自覚から来ていた。兵制改革はその自覚をおびやかすものとして、学海先生には受け取られた。
 藩政改革はもっと重大な結果をもたらすように思われた。これは
 一 藩庁は知事を頂点とする官僚組織とする。
 一 藩の財政については、藩の実収入の一割を知事の家禄とし、九分を軍事費とする。軍事費のうち半額は政府に納入、半額を藩独自の軍事費とする。その残余の八割一分を以て他の経費に充てる。
 一 藩士族の禄の増減については必ず中央政府に協議して行う。
 一 藩債の償却には通常の経費のほか知事の家禄や藩士の禄も充当する。
 一 藩札と正貨との交換計画をたてる。
というようなことが柱となっていた。
 藩を従来のような独立した権力組織としてではなく、中央政府のコントロール下に置こうとする意図が強く感じられる。
 一年後には廃藩置県が実施されて藩そのものがなくなるわけであるから、何故この時期に藩政改革に力を注いだかわからないところもあるが、新政府としては一気に改革を進めるよりも、漸進的に進めていったほうがよかろうとの判断が働いたのだろう。
 ともあれ学海先生としては、こういう議論を聞くにつけても、封建を廃して郡県を採用すとの意図が少しづつ着実に実行せられていく気配を感じさせられるのであった。
 明治三年九月十日に集議院が開催され、その場で藩政改革にかかわる大史御沙汰書が示された。御沙汰書というのは指令を示した書類のことである。この手続きを以て集議院議員はその職を解かれた。新政府としては、従来の各藩を代表する資格である集議院議員の存在価値は、一応藩政改革の議論を以て終わったと判断したのである。集議院が公務人制度と言う形で発足した時には、広く意見を求め万機公論に決すべしという精神を体現していたわけであるが、その場合の公論とは各藩の意見を意味していた。しかし中央政府の権力が飛躍的に高まり、これから中央集権化を更に進めて行こうとしている時にあたって、各藩の代表たる集議院はすでに当初の存在意義を失っていたばかりか、政府に反対することもある邪魔な存在になりつつあったわけである。
 それに対して学海先生は表立って不満を表明してはいない。クビになった三日後に仲のよかった連中と両国中村楼に小宴を催し、次のような詩を映じて心中を吐露してみせたばかりであった。
  銀燭珠簾酒若油  銀燭珠簾酒油の若し
  暫時分手望江楼  暫時手を分たん望江楼
  不知報政相逢日  知らず報政して相ひ逢ふ日
  誰是明朝第一流  誰か是れ明朝第一流たるを
 これを以て見れば学海先生がものごとに淡白だったことがよく窺われる。




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