不動院の飯盛地蔵(36×26cm ワトソン 2006年7月)

船橋の市街には古刹といえる程の寺を多く見ることはないのだが、唯一本町通りの南側、海老川寄りの一角にいくつかの寺が集まって、寺町らしい佇まいを見せている所がある。 そのうちの一つに、真言宗の不動院という寺がある。寺そのものはさして見るべきものではないが、入口付近に石の地蔵が鎮座していて、道行く人の目をひくのである。通称を飯盛地蔵といい、延享三年(一七四六)の津波で溺死した漁師を供養するため建立された釈迦如来像だという。

傍らの由緒書には、船橋の漁村としての歴史が簡潔に記されている。船橋浦漁浦記事というものによれば、この地域一帯は古来九日市字漁師町と海神村字下組両部落の漁民稼場の総称として船橋浦と称し、漁民たちが細々と業を続けて来たが、慶長十七年家康の時、御菜浦を命ぜられてから、多くの漁民が集まるようになり、漁村として発展したとある。

御菜浦とは将軍家に魚を収めるかわりに他の税を免除された漁村のことをいう。家康は江戸に入場すると都市づくりとそれを支える産業基盤の整備に努め、下総地方の塩や魚菜を運ぶための運河や道路を作ったりした。船橋は浦安と並んで安定的な魚の供給基地だったのである。

船橋浦は専漁場であるが、これと入会の境について、常に他村との争いがたえなかった。とりわけ、文政七年(一八二四)、浦安猫実村との間に起こった係争の際、裁定にあたった一橋家の侍を船橋の漁師が殴打するという事件が起きた。このため、船橋の漁師惣代三名が入牢し、うち二人が獄死した。漁師仲間は彼らの死を大いに悔やみ、延享年間の津波の犠牲者ともどもその霊を弔うために、この像を建て、毎年二月二十八日には、像に飯を盛って追善供養を行うのだという。

石の仏の顔には、誰でも安らかに成仏できそうな慈愛が溢れている。





                 

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