四方山話に興じる男たち
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メディア論を聞く


四方山話の会四月の例会は、浦子がメディア論を話すことになった。小生は三日前から春風邪を引いていて体調が悪かったので、欠席しようかとも思ったのだが、浦子のメディア論を聞いてみたいし、また会終了後に一部有志とロシア旅行の打ち合わせを予定していたこともあって、雨中病身をおして駆けつけた次第だった。会場についてみると、この宵の出席者は小生の他、柳、浦、石、福、岩の諸子合せて六名であった。この外、六谷子が来るはずだったが、弓仲間が急死して来られなくなったそうだ。何でも弓を引いている最中に死んでしまったというので、運命の矢を射るつもりが逆に射られてしまったといって、皆でその男の不運に同情した次第だ。

同情するばかりではなく、その男のようにぽっくり死ねれば幸いだという意見も強かった。しかしぽっくり死ぬのは本人の為には都合がよかろうが、遺族は迷惑する場合が多かろう。だからぽっくり死ぬつもりのやつは、いつぽっくり逝ってもよいように、その準備をしておいた方がよい。例えば遺書を作っておくとか。小生がそういうと浦子が大いに賛意を表明して、俺も最初のドイツ旅行の際には万が一にそなえて家族にメモを残しておいたよ、と話した。さよう、それがエチケットというものさ。

浦子はA4用紙四枚からなるレジュメを皆に配った。その内の一枚は白紙で、これはメモ用紙にして欲しいとのことであった。浦子は常に自分で用意した会議資料には白紙のメモ用紙を付けることにしているのだそうである。殊勝な心がけというべきである。

レジュメの一枚目は新聞の歴史と現状及び課題について、二枚目は放送の歴史と現状及び課題について、三枚目はインターネット情報空間の登場について、それぞれコンパクトにまとめられていた。

新聞については、浦子の認識は敗戦をメルクマールにして、それ以前を暗黒時代、それ以後を発展の時代と捉えているようである。小生などは、日本の新聞の最初の黄金時代は明治初期の自由民権運動の時代だと思っているので、こうした見方には違和感がないではなかったが、そこは見方の相違として受け止めた。また浦子は日本の新聞の歴史を画するいくつかの重要な出来事のなかで、特に西山事件を重視しているようであった。この事件がもとで、日本のジャーナリストは権力からの攻撃に敏感になって、いわゆる自主規制をするクセがついたというのである。

自主規制の一つの変形として、日本の大新聞は政治のスキャンダルを自分からは暴かず、まず週刊誌にやらせるというのがあるのだそうだ。週刊誌がスキャンダルとしてとりあげ、それが世間の話題になってはじめて、新聞が後追い的にそれを追求する。このやり方を通じて新聞は、自分はヤケドをせずに、いいとこどりをするという方法を身につけてきたと言うのだ。

近日中における朝日のスクープは、新聞がヤケドを覚悟で政権のスキャンダルをあばいたわけで、新聞本来の姿を取り戻したものとして、みな大いに評価できると言った。

新聞は昭和40年代の前半に最盛期を迎え、6000万部の発行部数を誇るに至ったが、以来じり貧になる一方で、いまではその半分くらいの規模にまで縮小してきているという。

その新聞の足場を危うくしたのは放送、特にテレビだと浦子は言う。テレビ放送が始まったのは昭和28年のことで、その年の春にNHKが、秋には日本テレビが開局した。以来テレビは上昇基調を保ち、最盛期にはキー局、地方局合せて128局に達した(今でも127局ある)。

民放局の財政はもっぱら広告料によって支えられている。広告料は視聴率に左右される。だから民放は視聴率に弱い。この視聴率は独特の操作で測られ、高い視聴率を目指して各局がしのぎを削っている。民放の場合には財政が豊かでないので、少ない金額でいかに人気をとれる番組を作るかが至上命題になっている。その点NHKは財政が豊かで安定しているので、視聴率を気にせずに、贅沢な番組作りをすることができるということだ。そんなに恵まれているなら、視聴者のためになる番組を沢山作っているかといえば、どうもそうではないらしい。NHKの番組は朝ドラとか年末の歌合戦とか一部のお化け番組をのぞけば、大部分は低い視聴率しかとれていない。

視聴率の低迷は、民放も例外ではなく、最近は10パーセント台で高視聴率と呼ばれるようになっている。かつての新聞と同様、テレビも顧客から見放されつつあるということらしい。

テレビの足場を崩しているのが、インターネット上の情報空間だ。いまはSNSとかブログの形をとるのが主流だが、いづれテレビに代替できるような、情報・エンタメ機能を果たすようになるに違いない。そうなると、メディアをめぐる環境がドラスティックに変わることとなり、既存のビジネスモデルがそのまま機能しなくなる可能性が高まる。メディア各社にとっての課題は、こうしたトレンドにいかに対応していくかということらしい。

今政府が手を付けようとしている放送と通信の一元化は、いづれテレビとインターネットの垣根が払われることを予想させるが、その結果どのようになるのか、まだ議論が煮詰まっているとはいえないようだ。浦子自身にも明確なイメージはないらしい。

まあ、こんな話を核として、それぞれが意見を述べ合ったのだったが、小生は病身が応えてきて次第に議論についていけなくなったばかりか、そのうち意識が朦朧として、仕舞いには頭の中が真っ白になってしまった。諸君の議論は、メディア論を越えて、さまざまな方向へと広がっていったようだが、今の小生の記憶にはほとんど残っていない。ただ小生の病状を心配した柳子が、これを飲めといって強心剤のようなものをくれた。口に含んだところやけに苦かったことを覚えている。

そんなわけで今回報告できることがらは、以上にとどまる。なお、当初予定していたロシア旅行の打ち合わせは、いずれ時期をずらせて連絡を取り合いたい。



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