漢詩と中国文化
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益尾知佐子「中国の行動原理」


タイトルにある中国の行動原理とは、政府を中心とした中国の主に対外的な行動を動かしている原理のことを、著者は意味している。その中国の対外行動を著者は困ったものだと見ているようだ。かなり自己中心的で一方的だ。それは日本に対する官民あげての攻撃ぶりを見れば明らかだ(2012年に日本政府の尖閣諸島国有化直後の反日暴動はその最たるものだった)。一方で中国人は、「中国は・・・相互に尊重しあい、公平で正義に則った、協力的で互恵的な新しい国際関係を推進してく」と、世界に対して大見得を切る。そういう中国の行動ぶりが、著者の目にはかなり特殊に映るということらしい。

この本は、そうした中国の特殊な行動が、どのような原理によってもたらされているか、を追求したものである。著者はその行動原理を、エマニュエル・トッドの家族類型論を適用して説き明かそうとしている。かなり単純なモデルである。その単純なモデルに、中国人の行動様式のすべてを関連付けようとする、ある種の強引さがあるので、破綻する危険もそれだけ大きいのであるが、説明のための原理を持ちだしているところには、学者としての良心を感じることもできる。最近の中国論には、単純な中国悪玉論に乘っているものが多いので、これは科学的な姿勢を掲げている分だけ良心的と言えるのではないか。

エマニュエル・トッドの家族類型論は、家族関係のパターンが社会システム全体を基礎づけるとする考えである。それによれば、日本やドイツのような国の家族類型は、親子関係が権威的で長子相続など兄弟関係が不平等な権威主義的家族であり、それに対して中国は、親子関係は権威的だが、兄弟関係が平等な外婚制共同体家族である。外婚制というのは、近親婚を厳しく禁止するというもので、従兄妹の間の結婚も禁止する。日本も、近親婚には否定的だが、従兄妹同士が結婚するケースはないでもなく、その点、中国よりゆるやかということらしい。

中国の外婚制共同体家族のあり方は、中国人の社会システムに規制的な影響を与えている。この家族関係の特徴は、親と子供たちが権威的に結びついて、子どもたちは親に対して垂直的支配服従関係にある一方、兄弟相互の間の序列意識は弱く、また互いに協力し合うということもないという。そうした人間関係のパターンが、そのまま社会システム全体を特徴づけるようになった結果、中国人特有の行動原理が成立した、と著者は考えるのである。その行動原理をごく単純化して言うと、指導者が絶大な権威をもち、その他の組織メンバーは指導者と垂直的な服従関係に入るということになる。一方、子どもの立場に相当する組織メンバー相互の関係は、平等というよりバラバラで、互いに協力しあうということはない。こうしたあり方は、中国全体の政治システムにもあてはまる。中国は、近代以降に限ってみても、毛沢東とかケ小平といった指導者が絶対的な権威を振るい、部下たちは指導者との間で垂直的な支配服従関係におかれ、相互に協力しあうことはない。指導者が絶対的な権威を持っているので、社会の行動原理は指導者の個人的な資質に左右される。したがって、指導者が代わるたびに、社会全体のあり方も変わる。部下たちは、それぞれ自分の立場から指導者の顔色を見ながら行動するので、毛沢東のように強力な指導者がいる場合には組織全体の統合度は高まるが、胡錦涛のように指導力に欠けた指導者の場合、部下たちは指導者を見くびって、それぞれ勝手な行動をしがちになる。

かなり単純なモデルに立った説明だが、全く荒唐無稽とも思えないのは、近年の中国の特異な行動ぶりが、ある程度このモデルで説明できるようにも思われるからだ。たとえば尖閣問題をめぐる中国の行動ぶりだ。著者によれば、これは海洋行政部門が独走している面がかなりあるのだが、その背景には、指導者と部下との中国的な関係が働いているという。部下たる海洋行政機関は親たる最高指導者に気に入られたいと思って、自分の行動を目立つようにするため、尖閣問題を意図的に利用している節がある。また、この問題が激化したのは胡錦涛時代であるが、胡錦涛は指導力に欠けていて、部下たる海洋行政機関を有効にコントロールできなかった。その結果、尖閣に対する攻撃的な行動がエスカレートし、中国の外交的な立場を弱くした、と著者は分析している。この辺は、さもありなんと思えるところで、毛利和子女史なども、尖閣問題が日中軍事対立に発展する可能性を憂えていたが、その背景には、海洋行政機関が、国家意思とはかかわりのないところで暴走しているという認識があった。

習近平は。少なくとも胡錦涛よりずっと力のある指導者で、ある意味中国の伝統的な指導者像に近いと著者は言う。彼は、部下をしっかりと掌握し、すべての部下の顔を自分に向かせることに成功した。だから尖閣問題についても、国家意思を逸脱して暴走する恐れもなくなった。事態をコントロールできるようになったというわけだ。もしそうだとしたら、それは日中関係にとって望ましいことだ、と著者は考えているようである。

ところで、現代中国を論じる時に欠かせないのが、社会主義的な政治システムと資本主義的な経済システムとの中国流の組合せ方をどう考えるかというテーマだ。著者はその組み合わせをキメラと呼んでいる。否定的な評価を感じさせる言葉だ。じっさい著者は、いまの中国は過渡的な段階にあって、将来的には、こうしたキメラ的なあり方は持たないだろうと見ている。それならどういう方向に進んでいくのかというと、やはり欧米流の資本主義システムに純化するだろうと見ている。その見方には無論、著者なりの価値判断があるわけだ。

なお、これは余計なことかもしれないが、トッドの家族類型論を日本の社会システム分析に適用したらどうなるか、面白いところだ。日本はドイツと共に、権威主義的家族とトッドは言ったが、両国とも無謀な戦争を自分から起して、国を滅亡寸前まで追い込んだ。その理由の大半が日本の家族システムの特異性にあるとしたら、それを十分に理解しておくことは、今後の国の行き先を論じるさいに、大いに参考になるのではないか。




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