漢詩と中国文化
HOMEブログ本館 東京を描く 水彩画陶淵明 英文学仏文学プロフィールBBS




赤い高粱:莫言を読む


「赤い高粱」は、ノーベル賞作家莫言にとって出世作となったものだ。張芸謀が映画化し、それがベルリンの金熊賞をとったので、そちらのほうがまず有名になった。もっともこの映画は、日本では反日映画と受け止められて、評判はよくなかった。実際映画のみならず原作の中でも、日本軍の横暴さが描かれている。小説のテーマは、日本軍と戦う庶民の生きざまを描くことにある。

莫言の文学には、マジック・リアリズムというような評がなされ、マルケスやフォークナーの影響が指摘されている。マジック・リアリズムという言葉は、莫言自身使っており、また、マルケスを始めとしたラテンアメリカ文学やフォークナーの影響を受けたことも認めている。そうした影響は、出世作の「赤い高粱」にも指摘できる。個人の意識を中心にした西洋的な文学の伝統とは別に、民衆を一つの塊として描く所はマルケスを連想させるし、また時間のもつリニアな性質を無視して、前後左右自由自在に時空を出入するところはフォークナーの世界を連想させる。

こうしたマジック・リアリズムのスタイルは、鄭義にも見られ、莫言一人の専有特許ではない。小生は現代中国文学については素人であるが、おそらく莫言がその先駆を走り、それに鄭義らが続いたということではないか。

この小説は、最初から一編の長編小説として構想されたのではなく、いくつかの中編小説を集めて一巻としたものだそうだ。互いに関連のある話からなる五つの中編小説の集合ということらしい。日本語で手軽に読めるものとしては、岩波現代文庫に収められている井口晃訳のものがあるが、これは第一作目と第二作目を組み合わせたものだ。これだけでも一応完結した物語になっている。

第一章(一作目)は、山東省の高蜜県の高粱畑を舞台にして、土地の農民たちが抗日ゲリラとなり、日本軍と戦うところを描く。主人公は余占鰲という盗賊崩れらしい男。その男が村人を組織して抗日ゲリラ部隊を結成し、日本軍と戦うのだ。その結果、村に押し寄せてきた日本軍を撃滅するが、自分たちも全滅に近い打撃を受ける。その前に、仲間の一人が日本軍によって拷問され、生きたまま皮を剥がれる場面がある。その描写は、それまでの世界の文学ではありえなかったほど、迫真性に満ちたものだ。

第二章は、余占鰲が戴鳳蓮と結ばれるなりそめについて語る。戴鳳蓮は16歳の時に裕福な酒造家に嫁入りさせられるのだが、相手の男がらい病患者でびっくりする。そんな彼女を自分のものにしたいと思った余占鰲は、相手の男とその父親を殺して、嫁の立場から酒屋を相続した戴鳳蓮の夫におさまる。二人はそれ以前に、高粱畑で結ばれていたのだ。

小説全体は、戴鳳蓮と余占鰲の孫だと名乗る人物が語り手となる。小説の中では、彼自身は出てこない。かろうじて彼の父親の少年時代の活躍ぶりが語られる程度だ。彼自身は物語の背後に退いて、語り手に徹するのである。だから必ずしも主人公たちの孫を名乗る必要はないわけだが、孫であることの特殊性が、時空を超えた語り方を可能にしているともいえる。そこは莫言なりに計算しているのであろう。

この小説の主人公は無論人間たちなのだが、タイトルにもあるとおり、高粱の存在感が圧倒的である。小説のあらゆる場面で赤い高粱が強いかかわりを以て出て来るし、また出来事の意味について象徴的に語る際の表徴としの役割を持たされている。そんなわけで、全編が赤い高粱のイメージで満たされている。その高粱を語り手は、「高粱たちはまぎれもなく魂を持つ生き物なのだ。彼らは黒土に根をはり、月日の精をうけ、天露にはぐくまれ、天空のしくみと地上のことわりを知っている」と言うのである。

それだから読者はいやおうなく赤い高粱のイメージを喚起させられるわけだが、小生のようにその現物を見たことのないものには、いまひとつピンとこないところがある。写真でみると、トウモロコシほどの高さの茎に、モロコシのような形状の赤い実をびっしりと付けている。戴鳳蓮と余占鰲はこのコーリャンの畑で交わったということになっているが、たしかにそれだけ背の高い植物の影なら、周囲から姿を隠すことができるにちがいない。




HOME中国文学覚書 莫言を読む次へ






 


作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2009-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである