漢詩と中国文化
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白檀の刑:莫言の幻覚的リアリズム


莫言がノーベル文学賞を受けた時、受賞理由として「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」と説明された。後段の部分はある程度理解できる。民話というのは莫言が親しんだ中国の地方に伝わる民話なのだろう。歴史が中国史を指すのは間違いないようだ。その歴史を現代と融合させているとは、中国というのは常に過去と切り離しえないということであろう。つまり、莫言という作家は、中国という国と切り離しえない、極めて民族色豊かな作家ということになる。その辺は、村上春樹を始め、民族性を超越したコスモポリタン風の文学を追求する現代の人気文学とは大いに異なる。

その民族色豊かな文学を、幻想的なリアリズムで表現するということらしいが、幻想的リアリズムとは何か。その言葉が何を意味するのか、よくわからないところがある。幻想には現実とはかけ離れたところがある。というより、現実から遊離しているから幻想と呼ばれるわけだろう。その幻想がどのようにしてリアリズムと結びつくのか。そこがよくわからない。幻想の中身を、ぼんやりとしてではなく、ありありと思い浮かぶように描写するということか。

ありありと思い浮かぶという点では、莫言の文章には、リアルな迫力がある。そのリアルな迫力を以て莫言が描き出すのは、中国の庶民のたくましい生活力だ。だいたい中国の伝統的な文学は、庶民の想像力に根差したもので、それは中国庶民のたくましさをあらわして来たのだったが、その伝統の上に莫言も立っているといえる。そこがかれを郷土の作家としているわけであろう。莫言ほど、中国的なものを体現し、その意味で郷土の作家という言葉が相応しい人はほかにいないのではないか。「神樹」を書いた鄭義も、莫言のそうしたスタイルに倣ったのだと言える。

「白檀の刑」は莫言の代表作とされている。それゆえこの作品にも、上述したような莫言の文学上の特色が色濃く表れているといえるかどうか。それを確かめてみたい。

まず、郷土色が豊かだという特徴は、言葉通りに当てはまるといえる。この小説のテーマは、清末の中国であって、中国の歴史そのままが描かれている。清末に、外国の侵略に抗して義和団事件が起きた。その義和団事件の一コマをこの小説は描いているのである。その歴史的な事件にからませて民話風の物語が語られる。この小説の基調低音となっている猫腔は中国の民話的な世界をバックにもっている芸能だ。その猫腔の調べに乘って、義和団事件にまつわる陰惨な出来事が語られる。その出来事のクライマックスをなすのは、小説のタイトルともなった「白檀の刑」なのだが、この刑は、虚心に文章を読む限りは、物理的、解剖学的にありえない事態を描いているので、その意味では幻覚に通じる世界である。ところがその描き方が、あまりにも迫真的であるので、読むものはそこに圧倒的なリアルさを感じてしまうのだ。そのちぐはぐな結びつきが、もしかしたら、幻覚的リアリズムといえるのかもしれない。

この小説の構造上の特徴は、登場人物のぞれぞれの独白を、そのまま文章にして、それをつなぎ合わせていることだ。これはフォークナーが、「響きと怒り」の中で採用した方法で、第三者の目からではなく、登場人物の目から見えた世界を描いたことから、独特な効果を持った。通常一人称の小説は、たった一人の語り手が小説全体を語るということになるのだが、フォークナーは、複数の人物の一人称的な語りを組み合わせることで、視点のずれとか、対象の複合的な見方といった、従来の文学にはなかったものを提示した。そのやり方に莫言も従っているわけだ。その結果、物語の展開に輻輳しあった厚みというものが生まれている。しかも、物語の進行は、時間軸にそったリニアなものではない。過去と現在と未来とが、互いに入れ替わり、もつれあい、徴発しあうことで、独特の円環的な構造を呈している。そういう特徴はフォークナーの「響きと怒り」にも見られたが、莫言はそれを意識的に追及しているようだ。莫言の文学を一言で特徴づけるとすれば、時空を超越しているところだと言ってよいほどである。

時空の円環的な処理ともいえるこうした手法は、中国人の時空感覚と無縁ではないだろう。中国人というのは、その歴史から推測できるように、リニアな時間と連続的な空間という感覚を必ずしも持っていない。そうではなく、円環的な時間と非連続な空間といった感覚を持っているのではないか。それはおそらく、中国の歴史が、いくつかの王朝の非連続的な交代からなっていることと関係があるのだと思う。しかもその非連続的な各王朝の大きな割合を、異民族が占めている。中国の歴史の少なからざる部分は、異民族が中国全体を支配した歴史で、しかも王朝が交代するごとに、歴史は新しいスタートラインから始まるのである。無論王朝同士で共通する要素がないわけではないが、それよりも断絶した要素のほうが大きい。こうした中国の歴史の特異性が、中国人の円環的でしかも非連続の時空感覚を養ってきたのだと思う。莫言はそうした中国人の時空感覚を、文学のうえに意識的に表現したのだと言えるようである。

義和団事件が物語の舞台を提供しているわけだが、義和団とは清末に外国による侵略に抵抗した運動だ。その外国による侵略を、中国の支配者たちが阻止できないばかりか、袁世凱のように、外国人に迎合して中国人民衆を虐殺して恥じない者もいる。そもそも支配者たる皇帝にしてからが、もともとは外国人だったのだ。だから清末の中国は、内と外と両面において、外国人が国を危うくし、中国人は無法な暴力にあえいでいたのである。この小説はそうした理不尽な暴力を描くところに、もっとも迫力を感じさせるものがある。

莫言は、出世作となった「赤い高粱」の中で、抗日戦の一コマを描き、そこで日本人による中国人の虐待を生々しく描いていたが、この「白檀の刑」では、ドイツ人による中国人の虐待が描かれる。そのドイツ人に、袁世凱がこびを売りながら、中国人の虐殺に手を貸すのだ。その袁世凱を、作中人物は漢奸と罵っている。ドイツ人の手先になるのは、袁世凱だけではない。処刑人の趙甲はじめ、ドイツ人に迎合して同胞の中国人を虐待して恥じない者もいる。これは中国人としては、莫言ならずとも、あまり面白くないことだろう。



二つの音:莫言「白檀の刑」
中国の処刑文化:莫言「白檀の刑」
犬肉と黄酒:莫言「白檀の刑」



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