漢詩と中国文化
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転生夢現:莫言を読む


莫言のノーベル賞授賞理由に、「幻覚的(Hallucinatory)リアリズムが民話・歴史・現代と融合している」とあった。その意味が小生にはよくわからなかった。幻覚はある種の現実かもしれないが、普通の感覚では、幻覚と現実とは正反対のものだろう。それが何故結びつくのか、そこがまずわからなかった。またその幻覚的リアリズムが民話・歴史・現代と融合すると言うのもしっくりしない言葉だった。一つだけピンときたのは、こうした言葉によって莫言の作風を紹介しようというのは、莫言の小説世界が世間の常識をはみ出しているからだということだった。

莫言自身は、自分の小説に影響を与えたものとして、ガルシア・マルケスら中南米の文学とフォークナーをあげている。中南米の文学は、現実の秩序からはみ出したところがあり、しかも中南米社会の現実を如実に反映しているところから、マジック・リアリズムなどと言われた。そのマジカルな作風が莫言の幻覚的リアリズムに通じているとはいえる。また、フォークナーの作風は、時空という概念を全く骨抜きにして、仮想と現実との境界が最大限曖昧化している。フォークナーの作品には常軌を逸した異常な生き物は登場しないが、語り口はかなり異常である。そうした語り口の異常さを、莫言の作品にも見ることができる。

そういうふうに考えると、なんとなくわかったような気がしたが、では莫言のどの作品に、「民話・歴史・現代と融合した幻覚的リアリズム」を見るができるのか。莫言の長編小説はどれも、中国近現代史を背景にした壮大な構想に支えられており、しかも語り口に中国の民話を思わせるような、中国的な語り方を感じさせるものがある。なかでもこの「転生夢現」はそうした特徴がもっともよく現われていると言える。ノーベル賞の授賞委員会も、そこは意識していたのではないか。「赤いコーリャン」と並んでもっとも着目していたのは、この作品だったらしいのである。

中国語の原題は「生死疲労」だが、邦題の「転生夢現」のほうが、内容をよく表現している。転生とは輪廻転生のことであり、この小説の主人公が、死後さまざまな動物に転生したあと再び人間として生まれ変わることをあらわしている。輪廻転生の思想はもともと仏教的なものであり、その点では日本人にもなじみが深いものだが、中国人にとってもそうなのか。莫言の小説には、寺院や神社がよく出てくる。そういう場面を読むと、中国人はいまだに、仏教の考え方を意識の基層部分で受け入れているように思える。中国では仏教は外来思想で、道教とか儒教が土着思想という整理になっているようであるが、外来思想としての仏教は、土着思想の道教や儒教とそれこそ融合しているのだろうか。日本の神仏習合のように。中国文化については、漢詩を読むだけの小生には、そういうところまではわからない。

邦題の後段の夢現とは、日本語で言えば夢うつつということだろう。夢うつつとは、夢と現実の区別がつかないという意味だが、この夢現もまた、そのようなところがある。もっとも、小説の中では、転生した動物たちの語りはあくまでも現実の出来事として語られている。それは現在を生きている動物にとっては現実に違いないのだ。もっともその動物は、かつて生きていた人間が輪廻転生したものだということになっている。そうだとしたら、動物に転生した人間が語っているのか、あるいは人間から転生した動物が語っているのか、その間に明確な区別は指摘できないようである。もし人間として語っているのなら、動物としての自分は夢の中の存在に異ならないだろう。

以上はこの小説の幻覚的リアリズムにかかわる部分だ。歴史と現在との統合という部分では、この小説の歴史的な背景が問題になる。この小説は1950年一月一日に始まり。2001年の一月一日で終わる。この間の中国の歴史は、人民共和国の建国直後から、改革開放を経て21世紀の初頭にいたる、中国現代史をまるまるカバーしている。その中国現代史を生きたある一家がこの小説の主人公たちだ。その中心にいるのは、かつて山東省高密県の地主として豊かな暮らしをしており、革命後に殺された西門鬧という男だ。といっても彼は人間として登場するわけではない。転生した動物として登場するのだ。彼が転生したのは、驢馬、牛、豚、犬といった具合で、さらに猿を経て最後には人間として再生する。小説はその再生した人間である大頭の藍千歳が、自分の前世について語り始めるという形で進んでいくのである。

西門鬧のほかに、彼の家族たちが登場する。正妻の白氏、妾の迎春と呉秋香、彼女たちの再婚した夫とその子どもたちなどである。それにかれらを取り巻く様々な人物が周辺に登場する。それらの人物は、毛沢東時代の教条的なイデオロギーの権化であったり、改革開放時代にうまく立ち回った人間であったり、それぞれ時代の精神を体現した典型として登場する。莫言の小説には、こうした典型的な人物が多く出てくるので、人によってはそれを形式主義的と批判する者もいるが、中国文学に特有な伝統である典型的人物を再現しているのだという好意的な見方もある。

小説は、転生した動物の順序にしたがって、基本的には彼ら動物が語りかけてくるという形をとっている。もう一人重要人物がいて、それが第二の語り手をつとめる。それは迎春の息子藍解放だ。迎春は西門鬧の子どもで双子の西面金童と西面宝鳳を生んだほかに、西門鬧の死後結婚した作男の藍瞼との間に藍解放という子を産んだ。その藍解放が、西門鬧の死後における家族関係の中核となり、家族のその後のなりゆきについて語るのである。かれはしたがって、さまざまな動物が西門鬧の転生したものだと知っているのである。それにしても西門鬧の転生は忙しい。小説がカバーしている半世紀50年の間に、五種類の動物と人間とに転生するのだ。

藍解放の次に重要な役割を演じるのは西門金童だ。金童は西門鬧の子どもだが、父親の死後は、母親の結婚相手である藍瞼の養子として育てられる。かれは時代の空気を読むのがうまく、毛沢東時代には共産党に味方して養父をコケにし、改革開放時代以後は、時代の波に乗って金儲けに奔走するのである。要領がいいのであるが、その要領のよさが仇になって命を落とす。毛沢東主義者の洪泰岳によって、爆死の道連れにさせられてしまうのだ。

そのほかさまざまな人物が登場して、中国現代の半世紀をそれぞれの立場から彩っていく。かれらの生きざまを見ると、そこに中国現代の時代精神が生き生きと脈打っているさまを見るのである。



人間からロバへの転生:莫言「転生夢現」
牛への転生と文革時代:莫言「転生夢現」
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