漢詩と中国文化
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抗日戦と階級闘争:鄭義「神樹」


鄭義の小説「神樹」には、抗日戦の話題が出て来る。この小説は中国近現代史が大きなテーマとなっており、その歴史が抗日戦と内戦を抜きに語れない限り、当然のことかもしれない。小生は中国の現代文学をそう読んでいるわけではないが、莫言の歴史ものなども抗日戦の話題を扱っており、中国人にとって抗日戦の話題はいまだに身近なようだ。

抗日戦とは言っても、この小説の場合には、中国の軍隊が日本軍と戦う場面があるわけではない。八路軍を追って村にやってきた日本軍に、村人たちが翻弄されるだけである。その挙句に、村長の趙武挙が村民を代表して殺される。日本刀で首を切り落とされるのだ。その際に彼は、チンポコを天に向けて死ぬことを願うのである。ともあれかれは、日本軍に向って勇敢に振る舞ったことで、抗日村長の称号を賜るのだ。

小説の舞台となった山西省は、共産党の影響力が強かった土地柄らしい。共産党の根拠地延安はすぐとなりの陝西省にあるし、「大寨に学べ」で知られる大寨村は省内の大行山地にあり、小説の舞台神樹村からはそう遠くない。そんな土地柄だから、おそらく日本軍の攻撃対象となったのだろう。日本軍は八路軍を追って、村に入ってきたということになっている。

実際八路軍は、この村に軍事拠点を置いていたのだった。だが、どういうわけか戦闘能力はない。大勢の負傷兵を抱えて、逃げ回る一方である。そんな八路軍を、村民はかくまう。そのかくまい方というのがユニークである。神樹の繁みの中に隠すのだ。それを察知した日本軍は、神樹に向って一斉攻撃を仕掛けるが、神樹はびくともしない。そこで怒った司令官が、村長の趙武挙の首を刎ねさせるのだ。

その後、この神樹が人民解放軍によって壊滅させられそうになった時、八路軍の亡霊が現れ、村民たちと一体になって歯向かう。かれらは神樹に命を守られたことを忘れないでいるのだ。

日本軍が去った後、共産党は蒋介石との間で内戦を戦う。その結果共産党が勝利して権力を握ると、今度は中国人の間での階級闘争が起る。その階級闘争の過程で、地主や金持ちたちが大勢、階級敵というレッテルを貼られて殺されるのである。この小説は、その階級闘争の一こまを、村民の間の権力争いにからめて描く。

中国の庶民の間で、階級闘争が全国的に盛り上がったのは、土地改革運動が吹き荒れた1950年代初めである。この運動によって従来の大地主が土地を取りあげられたのだったが、その際に土地を取りあげるだけではなく、命も奪った。どれだけの人が殺されたか。おそらく数百万人にのぼったことであろう。神樹村においても、五人の人が殺されたということになっている。「あの当時はどこでも地主富農を殺したんであって、うちの村だけが人を殺したわけではない。うちの村は前後合わせて五人殺したが、少ない数ではないもののとくに多かったわけでもない」

この頃のそうした地主殺害の様子を、小説は次のように描写している。「章河沿岸の村々では、殺した人間を河に放り込んだ。冬至の前で河が凍っていないのを幸いに、死体を章河に投げ込んで汾河に流し、さらに黄河まで送ってしまおうというのだ。いかなる組織も人間もあらかじめ手配したわけではなかったが、人びとは死体をなるべく遠ざけたいと願い、墓を作ったり胸の動悸を覚えたりしたくなかったのだ。冬の章河の流れは浅く緩やかで、浅瀬や橋梁にさしかかると、死体は堆積し、グズグズと故郷の家族と別れかねているのである」。当時の中国では、実際このような光景が珍しくなかったのか?

神樹村の地主殺害は、共産党から派遣されてきたオルグの主導でなされた。そのオルグは、村長の家に隠されているとの噂がある金塊を、共産党の資金として差し出せと迫るのだが、村長の趙伝牛は、そんなものはないと言い張る。そこでかれは、二重に階級敵だと断定され、死刑判決を受けるのである。趙伝牛の死刑をもっとも望んでいたのは石建富であった。かれは貧農の代表として、階級敵であるという名義で、年来の宿敵だった趙伝牛を倒すのだ。かれの趙伝牛に対する憎しみは深かった。父親は趙伝牛から金塊を奪おうとして失敗し、罰せられて狂死したのであるし、長男は飢えに迫られて趙伝牛の家から食い物を盗み、そのために石建富は父親として、息子に死の罰を与えなければならなかったのである。

その石建富も失脚するのだが、それもまた階級敵という名目によるのだった。文化大革命の最中、階級闘争意識が高まった頃、石建富は誤って「打倒、毛沢東!」と叫んでしまった。それを聞きつけた李金昌が、石建富を糾弾して失脚させ、自分がその後釜に座るのだ。もっとも石建富は、趙伝牛のように殺されることはなかった。そのかわりに隠遁して山に隠れ、余生を植林にささげるのである。神樹の開花を最初に目撃したのは彼であった。

石建富を失脚させた李金昌も、やがて失脚することになるが、それは改革開放時代のことであって、その頃には人々の階級意識も和らいでいた。だから、李金昌から趙家文への権力移行は、階級闘争としてではなく、村民の総意という形をとったのである。




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