漢詩と中国文化
HOMEブログ本館東京を描く水彩画陶淵明英文学仏文学西洋哲学 | 万葉集プロフィールBSS



身分による差別を描く:魯迅「故郷」


魯迅の短編小説「故郷」は、日本の中学三年生の国語教科書すべてに採用されているそうである。中学三年生といえば、生涯でもっとも多感な時期だから、その時に感動したことは一生心から離れることはないだろう。それほど意義のある読書体験を、日本の国語教育は、魯迅という中国人作家の作品を通じてさせようとしている。魯迅のこの作品のどこに、そんな期待をさせるような要素があるのだろうか。

周知のようにこの作品は、かつての中国社会における厳しい身分差別と、下層身分の人々の悲惨な暮らしぶりを描いたものだ。そうした身分差別が現在の日本社会に遍在するわけではないし、また、この小説に描かれているような貧困が、蔓延しているわけでもない。だから、この小説を読んだ中学生の多くは、そこに描かれていることがらを、自分の身に引き比べて考えることはしないだろう。身分差別といい、貧困といい、可能性としてありうるものとして、観念的にとらえるだけだろう。少なくとも、想像力を働かせない限りは。

たしかに、この小説を読むには、かなりの想像力が必要だ。想像力を働かせない限り、そこに描かれていることは、現実の日本社会とそこに生きている自分自身にとっては、かかわりのない絵空事だ、と思えるだけかもしれない。だが、想像力を働かせて読めば、身分による差別というものがどんなに非合理なもので、また、民衆の貧困がもたらす悲惨さも、決して絵空事ではなく、少なくともかつての中国社会に現存したものだということを、少なくとも頭の中では理解できようし、それについて自分なりに判断することもできるだろう。国語教育がこの作品に期待したのは、そうしたもろもろの事柄なのだろう。

この小説は、魯迅の実体験にもとづいている。魯迅は、北京での生活基盤が整ったところで、紹興に住む母親や妻を引き取って、一緒に暮らす決心をする。そして自分から紹興まで迎えに出向くのだが、この小説は、その時のことを下敷きに書いているのである。

この小説には妻は出てこないが、母親が出てきて、主人公のためにいろいろと世話をする。その中で、かつて主人公の子ども時代の親友だった閏土の近況について話して聞かせ、近く訪ねてくるはずだと知らせる。その知らせを聞いた主人公には、一気に昔の記憶がよみがえり、閏土とともに遊んだ少年時代の楽しい思い出が次から次へと蘇ってきた。そしていよいよ、その閏土が自分の目の前に現れる。主人公は、子ども時代と同じような気持ちで閏土に接しようとする。ところが閏土が最初に発した言葉は、「旦那さま」という言葉であった。

この言葉に接した主人公は、身震いしたような気がし、自分と閏土との間に、「すでに悲しむべき壁が築かれたことを覚った」。母親は母親で、二人の間を気遣って、折角何年ぶりかであったのだから、そんなによそよそしくしないで、昔どおりに接すればよいではないかというのであるが、二人の間に築かれてしまった壁は、簡単には乗り越えられないのである。その壁とは、身分という壁であり、二人はその壁を隔てて、差別された存在になってしまっているのである。差別というのは、差別する側と差別される側とが一体になって作り出す関係であるから、差別する側も、見様によっては、差別関係の中で差別されているわけである。

こうした身分差別は、かつての日本にもあったはずだが、魯迅と違って日本の作家たちは、それを正面から取り上げることはしなかった。島崎藤村の「破戒」などは、その例外だが、それでも差別の現実が生々しく描かれることはない。主人公の意識の中で、自分が差別されるべき立場の存在だという認識が浮かび上がってくるだけだ。

日本で差別を表面切って取り上げたのは、文学ではなく映画だった。時代劇は徳川時代の身分社会を背景にしているから、当然、身分による差別が、現実の出来事として描かれる。だが、魯迅の小説の登場人物が、差別を悲しいことだと受け取るのに対して、日本映画の中の登場人物たちは、そうは感じない。彼らにとって、身分による差別は当たり前のことなのである。

日本映画で差別が尖鋭な問題になったのは、身分差別ではなく男女差別である。かつての日本においては、女性は男性に劣る存在だとされ、あからさまに差別された。差別されたからといって、大部分の女性たちは不平を漏らしたわけではないが、それでも時には、あまりにもえげつない差別に対して公然と反抗する女も現れた。かの溝口健二は、そうした差別される女性たちの、女性としての意地ををもっぱらにとりあげて描いた。

さて、差別といい、貧困といい、この小説のテーマは非常に暗いのであるが、ひとつだけ明るいところがある。それは、子どもたちの未来に希望を託しているところである。こうした明るさがどこにもなければ、この作品は読むに耐えないだろう。

小説の末尾で、魯迅は次のように書いて、希望とは人々が作り出すものだという意味のことを言うのだ。

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(竹内好訳)






HOME魯迅次へ




 


作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2009-2014
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである