漢詩と中国文化
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聞官軍收河南河北:杜甫を読む



杜甫の七言律詩「官軍の河南河北を收むるを聞く」(壺齋散人注)

  劍外忽傳收薊北  劍外忽ち傳ふ薊北を收むと
  初聞涕涙滿衣裳  初めて聞いて涕涙衣裳に滿つ
  卻看妻子愁何在  卻って妻子を看れば愁ひ何くにか在る
  漫捲詩書喜欲狂  漫に詩書に捲んで喜びて狂はんと欲す
  白日放歌須縱酒  白日放歌して須く酒を縱にすべし
  青春作伴好還郷  青春伴を作して好し郷に還らん
  即從巴峽穿巫峽  即ち巴峽より巫峽を穿ち
  便下襄陽向洛陽  便ち襄陽に下って洛陽に向かはん

剣門の外たるここ蜀の地に官軍が河北地方を平定したという知らせが届いた、この知らせを聞くや涙で衣が濡れるばかり、妻子を振り返れば日頃の憂いなど吹き飛ぶ、詩書を放りだしては喜びの余り気が狂うばかりだ

昼間から歌を歌って祝い酒を飲もう、春のうららかな日に一家そろって故郷に帰ろう、長江を下って巴峽から巫峽に抜け、襄陽へ下ってそこから更に洛陽をめざそう


広徳元年(763)、杜甫は梓州にあって、安思の乱が平定されたときいた。この詩はその知らせを聞いて、勝利を喜んで歌ったものである。

その前年杜甫は旅先の綿州で徐知道の反乱に遭遇して成都に戻れず梓州に入っていたが、乱平定後いったん成都に戻って、そこから家族を梓州に移していた。洛陽に対する望郷の念がそうさせたのだと推測される。

官軍の勝利に接した杜甫には、いまこそ故郷に帰るチャンスだと思われたに違いない。この詩にはそうした杜甫の望郷の思いがあふれるように盛り込まれている。

なお杜甫が実際に成都をあとにして三峡に向かったのは、永泰元年(765)5月のことである。






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