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川端康成を読む


川端康成の創作態度の特徴は、ひとつの整然とした構想に基づいてまとまりのある物語を書こうという意図を持たないということだ。事前に用意した確固たる構想にしたがって物語を展開していくのではなく、いくつかの短い物語の間に関連性を見つけて、それをもとに事後的に物語に仕立てあげる、そういうタイプの創作態度を、川端はとっているかのようである。「雪国」にしろ、「山の音」にしろ、完成までに異常に長い時間をかけているのは、その現われであるといえる。

以上は川端康成の創作における物語構成上の傾向である。癖といってもよい。次に川端のモチーフ選定の傾向を考えたい。モチーフ選定というのは、俗にいえば小説のテーマ設定のことである。川端の小説のテーマは、女である。それも女自体ではなく、男の視線の先にある女である。川端の主要な作品、若い頃の「伊豆の踊子」に始まって、「山の音」を経て「雪国」に至るまで、川端は一貫して男の視線が捉えた女を描き続けた。その視線は、おそらく男としての川端が担っている。川端は女より男に人気のある作家であるが、それは川端が日本の男を代表して女の品定めをしているからであろう。人間の品定めは、日本では源氏物語以来の伝統がある。その伝統を踏まえて、川端が現代日本の女を品定めしたわけだから、そこが非常に新鮮に映ったのだろうと思う。とくに男にとって。

日本の男にとって、川端康成という作家は、親しみを感じる男であるが、女にとっては、いやらしい輩と受けとられるものらしい。なかには川端が好きな女性読者もいるらしいが、それは女の中の少数派ではないか。女の眼からすれば、川端は、女を一人の自立した存在とはみなさず、男の欲望の対象でしかないように見ている。川端の初期の小説「伊豆の踊子」は、一読して他愛ない初恋の物語のようにも受け取られるが、よくよく読めば、そこに描かれた踊子の少女は男子高校生の欲望の対象でしかない。この男子生徒は小説の最後で無暗にむせび泣いてみせるのだが、それはセックスの対象と思い込んでいた相手が、まだほんの子どもだったことについての失望からなのである。そんな馬鹿な男に欲望の対象にされるほど、女にとっていやらしことはあるまい。

そうしたいやらしさが、川端康成という作家にはある。そのいやらしさを、日本の男たちは喝さいするのだが、女たちは拒絶するのではないか。


山の音:川端康成の背徳小説

雪国:川端康成と官能の遊び

伊豆の踊子:川端康成の揺れる視線



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