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千歳丸の清国訪問:近現代の日中関係


徳川時代を通じて日本と中国(清国)との間には正式な外交関係はなかった。徳川幕府は、中国人商人が長崎で貿易活動をするのを許してはいたが、日本人が中国に渡るのは許さなかった。そんな日本が中国と正式に向き合うのは1862年(文久二年)のことである。この年徳川幕府は千歳丸を上海に派遣し、中国側代表との接触を試み、ある程度の関係を結ぶことに成功したのである。

千歳丸は、徳川幕府がイギリスから購入した蒸気帆船だった。もとの名前はアーミスティス号といい、358トンあり、当時としては性能の高い船だった。幕府がこの船を買う気になったのは、函館奉行の進言による。函館奉行は1859年の函館開港にともなって設置された役職で、諸外国との貿易の窓口になっていたが、その経験をもとに奉行は、日本も外国特に中国との間で貿易を行い、収入をあげるべきだと進言したのであった。それを受け入れた幕府が、イギリスから船を買い、その船で清国を訪問した次第であった。訪問の目的は、貿易の可能性を探るほか、清国の現状を視察することにあった。この訪問団はイギリス人水夫のほか、51人の日本人を乗せていた。日本人には、幕府の役人のほかに、長州藩の高杉晋作、薩摩藩の五代友厚など、諸藩の武士も含まれていた。

徳川幕府は、清国との外交関係を持たなかったので、どう接触してよいかわからなかった。そこで清国の事情に明るいオランダ人に依頼して、清国側との接触を図った。清国側では、上海の道台を勤める呉煦が窓口になって対応した。日本でいう長崎奉行のような立場の役人であろう。たいした権限は持たなかったようで、日本側の申し出に対しては、北京に指示を仰いで対応した。

日本側としては、日中間で外交関係を開きたいという意向があったが、これについては、北京は色よい返事はしなかった。清国は西洋列強との間では、無理やり開国させられたが、日本に対しては優越意識を抱いており、日本が朝貢を願い出るならまだしも、対等な外交関係など、考えも及ばないことだった。ただ貿易については、今回限りという条件付で、千歳丸が積んできた品々との貿易を許可した。呉煦は、日本側の行儀がよいことに気をよくして、貿易の手助けをしてくれたが、日本製品はほとんど売れなかった。

表向きのミッションでは、あまり成果をあげられなかったが、清国の現状をつぶさに視察するという点では、大いに知見を加えることができた。その当時の上海は、折から太平天国の乱が吹き荒れていたし、また列強との間では、第二次アヘン戦争をきっかけに、半植民地的な状態が一層強まっていた。そうした現状を眼にした日本の乗組員たちは、西洋に屈服する清国に侮蔑的な視線を向ける一方、日本もまた同じ轍を踏むことになるのではないかとの、危機感を抱いた。そうした危機感は、その後日本を動かしていく人々に、広く共有されることになる。

高杉晋作は、ほぼ二ヶ月にわたる清国訪問の体験を、日記「遊清五録」に書き残した。かれは藩命によって、幕府役人の従者という身分で派遣された。後に福沢諭吉が、やはり幕府役人木村摂津守の従者という身分で咸臨丸に乗り込むが、福沢の場合には自分で木村に売り込んだのだった。高杉は長州藩の期待を背負って乗り組んだわけである。そんなこともあり、清国を見る高杉の眼差しには強い使命感が指摘できる。時に高杉晋作弱冠二十三歳である。

高杉がまず刮目したのは、清国人が西洋人によって奴隷の如く扱われていることだった。西洋人は傲慢で、同じ人間とは思えない。そんな西洋人を高杉は野蛮と感じ、同じ東洋人であり日本とは文化的なつながりの深い中国人に親しみを覚えた。だがその親しみはやがて侮蔑の感情に変化していったようである。高杉はある日、上海に新しく出来たばかりの橋をイギリス人が監視していて、西洋人にはタダで渡らせ、中国人には金をとって渡らせているのを見た。自分の国なのになぜ、外国人に金を払わねば橋を渡れないのか。高杉はそんな疑念を抱くのだが、その疑念が、中国への侮蔑の感情につながったようである。

そんなわけで高杉は、外国の支配下に置かれている上海は「英仏の属地」と言ってよく、それを許したのは、清国の軍備が西洋に劣るためだと喝破した。その思いは、日本人としての強い危機感に発展する。その危機感は、攘夷運動の激化へとつながっていく。じっさい高杉は、上海訪問から戻ったその年のうちに、英国公使館焼き討ち事件の首謀者となるのである。

徳川幕府は、1864年にも健順丸訪問団を上海に派遣した。その時には、函館奉行所の役人を主体に約50人の日本人が乗船し、日本人が操縦した。清国はまだ海禁政策をとっていたのだったが、健順丸の上海入港を拒否しなかった。その折には、日本製品はけっこう売れて、そこばくの利益を上げることが出来た。

健順丸の派遣以降、徳川幕府はいよいよ末期的な症状を呈するようになり、外交どころではなくなったため、清国へのアプローチは途絶え、清国訪問の成果が引き継がれることはむつかしかった。しかし、この訪問団の見聞は、さまざまなかたちで共有され、欧米列強に対する危機意識を育んだことは間違いない。一方清国側でも、できたばかりの外交担当機関である総理衙門や曽国藩を中心にして、対日政策について考える糸口を得たといえる。

ともあれ、近代の曙に際して日中両国は、共に対外的な危機に直面しながら、どうやってそれを乗り越え、国としての独立を図るかという課題を共有していたわけである。その課題に、日本は成功裏に答えることができたが、清国は対応を誤ったおかげで滅亡し、中国という巨大な象は長らく方向を見失うこととなるのである。



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