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明治新政府の対中外交:近現代の日中関係


明治維新を経て成立した明治新政府は、幕末に列強との間に取り結ばされた不平等条約に悩んでいたが、清国との間では、少なくとも対等の立場から条約を結びたいと考えていた。もし可能なら、少しでも日本に有利な条件で。たとえば、西洋列強を意識して、日本にも最恵国待遇を要求するといったことである。それに対して清国側は、日本との条約締結は時代の趨勢で避けられないと認識しながら、西洋に対して行ったような譲歩をするつもりはなかった。こちらはこちらで、なるべく自国の有利になるような条約の締結を目指していた。

明治新政府は、1870年に、公卿出身の外務官僚柳原前光を清国に派遣して、条約締結の予備交渉をさせた。柳原は、妹の愛子が大正天皇の生母になるという、特別な家柄の出身である。彼の一行は、アメリカの郵便線で上海にわたり、そこから天津に赴いて、交渉にあたった。相手方は、出来たばかりの外交担当官庁総理衙門と北洋大臣の李鴻章であった。清国側とくに総理衙門は、条約など結ばないで貿易だけを認めるという考えだったが、李鴻章のほうは条約の締結に前向きだった。というよりは、日本の要求に応じて条約を締結するのは、時代の流れだからあらがいがたいと感じていたようだ。

李鴻章にはまた、別の思惑があった。李鴻章は、日本が列強の圧力に接しながら、それに簡単に屈してしまうのではなく、自主性を確保しようとする姿勢を高く評価した。だから、列強と対峙するについて、日清両国が協力し合えば、無理な要求を跳ね返すことができるかもしれないと考えたのである。一方、柳原のほうも、「西洋人は無理にせまって日本と通商を始めたが、我々は不満を持っていても単独では対抗できないので、清国と誼を通じて協力したい」という旨のことを言った。

そうした日本側の申し出を、李鴻章の上司である曽国藩も評価した。日本は元寇にも屈せず、かえって明の時代には倭寇となって我が国を苦しめ、中国に対してまったく恐れることがない。その点は、朝鮮、琉球、越南といった服属国とはちがう。日本が望むなら、条約を結んで誼を整え、ともに列強の圧力に抗したい。そう考えて日中間の条約締結に前向きだった。そんなかれらの意向が清朝を動かして、条約締結に向けて後押ししたのである。

翌1871年、明治政府は大蔵卿伊達宗城を全権代表として条約締結に派遣した。柳原前光と津田真道が随従した。締結交渉の大詰めは、清国側から条約原案を示すという形で行われた。これまでの清朝の外交スタイルを大きく逸脱するものであり、清朝側のこの条約にかける意気込みを感じさせるものだった。清朝側の示した条約案の骨子は次のようなものだった。
 ① 互いに不可侵の間柄であるだけでなく、第三国から不当な扱いを受けたときには互いに助け合う
 ② 互いの首都に大臣を派遣して駐在させる
 ③ 両国の開港場には、互いに領事を置いて自国民の管理を行い、自国民同士の訴訟を担当させる
 ④ 刑事案件については、事件が発生した国の官吏が逮捕し、領事とともに裁く
西洋列強との間に結んだ不平等条約に比較すると、対等・平等の立場にたった内容である。

日本側は、一旦はこの条約案を受け入れたが、いざ批准の段階になって、互いに助け合うという条項を削除し、そのかわりに清国が列強に与えた最恵国待遇を日本にも与えるという条項を盛り込もうとした。それには李鴻章は激怒した。そのため日本は自分の主張を引っ込め、原案通りの内容で批准した。このいきさつから見えることは、中国側が日本と対等の条約を結び、今後西洋列強の圧力に共同して当たりたいと考えたのに対して、日本は、西洋列強と同じような権益を清国に認めさせたいと意図していたということである。近現代の日中関係は、そのスタートからして、互いにずれた思惑を抱いていたということになろう。

日清修好条約は、1973年4月に正式に批准された。その際、伊達宗城は北京に赴いて、清の皇族で最高実力者奕訢に面会した。日本の政府要人が清朝(のみならず中国)の代表者と正式に向き合うのは、史上初めてのことだった。

その後明治政府は、外務卿の副島種臣を清国に派遣した。琉球と台湾をめぐって生じていた問題について、日本側の考えを理解してもらうのが目的だったが、それは別にして、この時に史上初めて、外国の使節団が清朝の皇帝に対して新しいスタイルの謁見を実施した。それまで清朝では、皇帝に謁見するときには、ひざまずいて叩頭することを求めていたが、それは西洋人には受け入れ難いことだった。そこで副島が謁見するについて、別の方式が定められた。副島は、ひざまずいて叩頭するのではなく、立ったままおじぎをしたのである。三回のおじぎをしながら皇帝に近づき、祝賀の言葉をのべると、皇帝がねぎらいの言葉を返す。その後副島は、やはり三回おじぎを繰り返しながら退出したのである。

このやり方は、折衷の産物だったが、西洋列強の外交官たちにも受け入れられるものだったので、これにならって他国の外交官も皇帝に謁見した。つまり副島は、外国の官吏として始めて、清国皇帝との謁見に成功した人物だったわけである。



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