日本語と日本文化
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琉球・台湾をめぐる日中間の軋轢:近現代の日中関係


琉球王国は、徳川時代を通じて、薩摩藩の支配を受けると共に、清国にも冊封関係を通じて服属していた。したがって、明治政府としては、清国への服属を解消して、全面的に日本の支配下に置くことが課題となっていた。そんな折に、1871年に琉球人が台湾先住民によって殺害されるという事件が起きた。台湾南部に漂着した宮古島の船に向かって、現地の住民が襲撃を加え、54人が殺されたのである。

これに対して、明治政府には征台論が起き上がった。しかし、台湾は清国の領土であり、清国に無断で台湾を攻めるわけにもいかず、まずは清国政府の意向を聞くべきだということになった。そこで、1873年に外務卿副島種臣が日清修好条規の批准のために北京を訪れた際に、柳原前光を通じて清国の外交窓口と交渉させた。清国側の意見は、殺されたのは琉球人であって日本人ではないので、日本人の心配することではないというものであった。それに対して柳原は、琉球は長い間薩摩に服属してきたので、日本人といってよいと反論した。柳原はまた、事件を起した原住民(生蕃)を処罰するのかと聞いた。それに対しては、生蕃は王化に服さないので統治の対象ではないと答えてきた。このやりとりを踏まえて、明治政府は、清朝は台湾先住民とは無関係の姿勢をとっていると解釈した。それが後に、清朝を無視した台湾出兵につながるわけである。

副島は帰国後すぐに、明治六年の政変に巻き込まれて政府を去った。明治六年の政変とは、征韓論をめぐって西郷隆盛らが政権を去ったというものである。西郷のいなくなった後に実権を一手に握った大久保利光(岩倉外遊から帰国したばかりだった)は、征韓論は時期尚早だが、台湾は打つべしと主張した。それに対して長州閥は懐疑的であった。

そんな状態のなかで、1874年4月に大山従道を司令官として、台湾出兵が決行された。政府全体の合意を経ないもので、大久保以下薩摩閥の専断といってよかった。これには、政府の総意が欠けていたのみならず、イギリスやアメリカの反対もあったが、大久保らはそうした反対を押し切って台湾へ出兵した。

日本兵は台湾南部に上陸し、現地住民を制圧した。原住民が相手であるから、日本軍は無敵であったが、その日本軍でも現地の疫病には勝てなかった。軍事行動での死者はわずか10名前後にとどまったが、マラリアで死ぬものが続出し、500名以上の死者を出した。そのほか重症になったものは数千人に達した。

台湾出兵は、清国への通知なしに行われたので、国際法の常識に反していた。だから、場合によっては泥沼の紛争に発展しかねなかったが、イギリスが仲介に入って、和議の交渉が進んだ。その結果は、日本にとって圧倒的に有利なものだった。清国は日本の軍事行動を保民の義挙と認め、琉球人の蒙った損害に対して倍賞金を支払うというものだった。これは、琉球人は日本人であるという主張を、清国側が認めたということを意味した。日本側はこれを最大限に利用し、琉球の併合に向けて動き出していく。

その動きは、1879年4月の沖縄県の設置という形で結実する。世にいう琉球処分である。明治政府はすでに明治5年に琉球王国を琉球藩とし、日本の版図に含める措置を始めていた。明治政府は琉球王を琉球藩王にするなど一定の配慮はした。一方で、清国との関係を断絶するよう圧力をかけた。これに対して琉球は強く反発し、清国に助けを求めた。琉球としては、清国との冊封関係が、独立を維持するための唯一の拠り所だったのである。しかしそうした動きもむなしく、日本政府は1879年4月(明治十二年)に琉球藩を廃止し、これを沖縄県として、全面的に日本の統治下に組み入れた。これを以て、450年間続いてきた琉球王国は滅亡した。

こうした日本政府のやり方を、李鴻章は苦々しく思い、また大いに怒った。かれは1870年以降日本との交渉の窓口にいて、日本に好意的に振る舞い、できれば清国と日本とが友好的な関係を築きたいと思っていた。だから1874年に日本が台湾出兵を行っても、なるべく穏便に対処しようとして行動した。かれとしては日本に対して友情を以て接してきたつもりだったのだ。それがこのざまだ。かれは日本が信頼するに値しないと感じるようになった。無理もないことである。

李鴻章のみならず、清国として日本のやり方は承服できなかった。駐英公使は国際世論に働きかけて、琉球の独立を求めた。それが一定の効を奏したかどうかわからぬが、前アメリカ大統領グラントが仲介に入って、琉球をめぐる日本と清国の対立を調停しようとした。彼の調停案は、琉球を南北で分割し、北半分を日本に、宮古島諸島を清国に帰属させるというものだった。この案に日本は乗った。ところが清国も、当事者の琉球勢力も乗らなかった。清国は、宮古島だけ渡されても迷惑するばかりだというし、琉球勢力は琉球全体の一体的な独立を願ったのである。

清国はその後も、琉球の帰属をめぐって要望を出し続けたが、日本側は一切とりあわなかった。実効支配しているのだから、いまさらその帰属をめぐっての交渉に応じることは、ナンセンス以外のなにものでもない、というのが日本の考えだった。外交の常識にかなった考えであるといえよう。

ともあれ、こうして日本は、長い間の懸案であった琉球の帰属問題を、ほとんどパーフェクトに処理することができた。それについては、軍事行動が物を言った。以後日本は、軍事行動を通じて、自分の言い分を国際社会に対して認めさせるという方法を追求していくのである。そうした言い分のうち、領土にかかわるものは、まともな外交交渉ではなかなか実現できない。軍事行動、すなわち戦力の行使こそが、領土の拡大をもたらす。これは、十九世紀の国際社会にあっては常識だったのであり、日本はその常識にのった行動をとったといえるのである。



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