日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




日清戦争:近現代の日中関係


1894年から翌年にかけての日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日中間の軋轢のクライマックスともいうべきものだった。日本側では、天津条約にもとづいて朝鮮から撤兵した後も、朝鮮への影響力を高めようとさまざまな動きを見せ、また将来清国と対立することを予想して、清国に関する情報を集めていた。一方清国側には、あいかわらず大国意識が強くて、日本を対等の相手と見ず、そのおごりが禍して、日本に関する情報を集めようとする様子も見えなかった。清国のそうした驕りは、袁世凱の軍隊が日本の軍隊に勝ったことにも支えられていた。

じっさい日清戦争以前における日清間の軍事バランスは清国のほうに有利だった。その最たるものは清国の海軍力だった。清国は1860年代から近代海軍の形成に乗り出し、日清戦争勃発時点での海軍力は、日本をはるかに上回っていた。1886年には、北洋艦隊の主力艦が長崎に立ち寄ったが、その威容は日本人を驚愕させた。そんな両国の海軍力の相違にかかわらず、日本海軍が圧勝した理由は、両国の組織力の違いだった。日本側は全ての艦船を連合艦隊に集約し、全員一致で戦ったのに対して、中国側は四つの艦隊に分裂し、そのうちまともに戦争に参加したのは北洋艦隊だけで、南洋艦隊などは全く無頓着だった。そうした戦意の違いが、日本を勝利させたのである。

日清戦争の直接の引き金となったのは東学党の乱だった。東学党とは宗教団体の一種で、反日的な傾向が強かった。日本が朝鮮産の米を買い占め、朝鮮の米不足が深刻化していることへの反発がその理由だった。この東学党が、朝鮮王室を相手に反乱を起したわけだが、朝鮮王室では、その鎮圧のために清国の介入を求めた。清国はその要請に応じて朝鮮に出兵すると同時に、天津条約にもとづいて日本に通知した。日本はつかさずそれに応じ、やはり朝鮮に出兵した。

東学党の乱は、王室と東学党との和解によって収束し、朝鮮王室は日清両国に撤兵を要請した。しかし日本はその要請に応じなかった。かえって、朝鮮王宮に攻め込み、親日政権を樹立しようとした。これによって日清間の緊張は一気に高まった。日本側では、この緊張を高めて、清国との間で戦争をするつもりであった。戦争のきっかけは、7月25日の豊島沖海鮮である。これは日本海軍による奇襲攻撃で、後に日本海軍が得意とする奇襲作戦のさきがけとなるものだった。これに続く一連の海戦の勝利によって日本は制海権を握った。

日本は8月1日に正式に清国への宣戦布告を行い、清国も同日中に日本に宣戦布告した。日本側の開戦理由は、朝鮮は日本によって開国政策に転じた独立国であるのに、清国は朝鮮をいまだに属国扱いし、内政に干渉しているので、それを止めさせ、朝鮮を真の独立国とするためというものだった。それに対して清国は、朝鮮が清国の藩属であることを強調した上で、清は朝鮮の百姓や中国商民を守るために出兵したのに、日本にはそのような理由もないので、日本は条約を守らず国際法も守らないと言って非難した。

この戦争は日本と李鴻章の戦争と言われるように、日本は国を挙げて戦争に取り組んだのに対して、清国にはそのような熱気はなかった。日本は海戦に圧勝し、陸戦でも勝利した。平壌の戦いが陸戦の山場となったが、これに日本は700人の犠牲を出しつつも勝利した。清国軍が朝鮮から撤退するや、日本軍は鴨緑江を渡って満州に入り、遼東半島の旅順口を目指した。旅順口に達した日本兵は、住民に対して残虐行為を働き、2000人を殺害したとされる。大多数は非戦闘員だった。その日本軍の残虐性は、欧米の報道機関によって広く報道された。

日本軍は更に、旅順口から船に乗って山東半島の威海衛に向かった。威海衛は北洋艦隊の根拠だ。これを日本は陸海軍協力して撃滅した。日本軍はいまや北京をうかがう位置に達したのである。

日清戦争に戦略的な決着がついたのは、1895年2月である。戦争処理をめぐる日清間の交渉が始まるのは1895年3月19日である。この日、李鴻章が100人の交渉団を率いて下関にやって来た。その李鴻章に対して、日本の右翼が襲撃し、李鴻章の左目下に弾丸が命中したが、李鴻章はその弾丸をそのままにしておいた。この事件は、日本にとって国際的な恥になるものだった。そのため天皇までが謝罪声明を出し、三週間の停戦を申し出たほどだった。

4月17日、下関において日清講和条約、いわゆる下関条約が結ばれた。条約の内容は次のようなものである。
・清国は台湾と澎湖諸島を日本に割譲する
・清国は日本に対して2億両の賠償金を支払う
・清国の朝鮮に対する宗主権は取り消され、朝鮮は完全な独立国家となる
・遼東半島はじめ広大な地域が日本に引き渡される
・日本は西洋諸国が清国で享受しているのと同じ特権を享受する

これに対して中国では民衆の怒りが爆発したが、清国にとっては、締結以外の選択肢はなかった。こうして5月8日に、山東省の煙台において、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカの立会いのもと、条約の批准が行われた。

台湾の割譲は清国にとって深刻だったが、それ以上に深刻だったのは、遼東半島の引渡しだった。遼東半島は中国の本土の一部であり、それを日本に引き渡すことは、外国による侵略を許すこと以外のなにものでもなかったからだ。しかし、これについては、李鴻章は後に三国干渉と呼ばれる事態が起こることを期待出来ていた。その干渉によって日本は、遼東半島の占有を撤回せざるを得ないと踏んでいたのだ。じっさい、条約批准から六日後に、ロシア、ドイツ、フランスの駐日公司が、友人としての忠告を日本政府に与え、遼東半島の清国への返還を強く求めたのである。これに日本は抗いえず、遼東半島を清国へ返還するかわりに3000万両の還付金の支払いを受けることになった。2億両の賠償金とともに、これら巨額の金は清国の財政に深刻な負担をもたらし、清国没落の大きな要因となっていった。

日清戦争に清国が敗北したことは、西洋列強の清国支配に拍車をかけた。領土の面では、ロシアが旅順口を25年間租借する権利を得た。三国干渉によって日本があきらめたものを、ロシアが横取りしたわけである。またロシアは、満州内に鉄道を敷設する権利も得た。ドイツは山東省の青島を支配下においた。イギリスは香港島に加え、その北側の九竜地区の租借権も得た。フランスは、ベトナムと雲南を結ぶ鉄道の敷設権を獲得し、広東省の港堪江を租借する権利を得た。また各国共同で、上海の租界を拡大させた。

これらの動きのうち、日本にとって重大な意味を持ったのは、ロシアの満州における影響力の拡大だった。ロシアが満州に進出することは、将来朝鮮もロシアの支配下に置かれる恐れにつながった。朝鮮がロシアの支配下に置かれることは、日本にとっては深刻な軍事的脅威を意味した。これまで朝鮮は、清国との軋轢の要因だったのだが、これ以後は、ロシアとの軋轢の淵源となっていく。じっさい日露戦争は、朝鮮をめぐる日露間の軋轢のクライマックスとして起こったのである。



HOME 近現代日中関係史 次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである