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日露戦争:近現代の日中関係


日露戦争は、日本とロシアの戦争であり中国は中立を保ったが、影響を受けないわけにはいかなかった。領土である満州が戦場になり、戦後はその満州に日本の侵略が及んでいくのである。日本は満州を植民地化したわけではないが、実質的に統治したうえ、満州を足がかりにして華北以南にも進出していく。その挙句に全面的な日中戦争に突入する。日露戦争は、そうした日本の対中政策の転機を画したのである。

日清戦争の結果、日本は下関条約で遼東半島の割譲を認めさせたが、その直後に三国干渉を受けて放棄せざるをえなかった。ところが三国干渉の一員だったロシアが、日本にかわって遼東半島の利権を得た。旅順口の租借権を中国に認めさせたのである。ロシアはこれを、念願の不凍港として整備するつもりだった。ロシアはまた、満州への鉄道敷設権も獲得し、それをシベリア鉄道とつなぐことによって、ロシア中心部と旅順口を直接結び、更に太平洋へと展開するいとぐちをつかめることともなった。

そうしたロシアの動きは、日本にとって深刻な脅威と受け止められた。ロシアは満州を足がかりにして朝鮮への進出も企んでいるように見えた。朝鮮がロシアの影響下に置かれることは、満州以上に日本にとっての安全保障上の脅威となる。そんな受け止め方が日本の指導部を捉えていく。日本は早晩ロシアとの対決を避けられないものとみなし、対露戦争に備えて準備するのである。

日本は殖産興業政策で国力を増進させたとはいえ、ロシアと比べれば非力といってよかった。まともにぶつかったらとてもかなわないだろうというのが、日本の軍事指導者の認識だった。その頃の日本の軍事指導者は、常識的な見方を心得ていたのである。日本が勝つためには奇襲を仕掛け、相手の軍事力に大きな打撃を与えるしかない、というのが軍部の見方だった。それ故、日本政府が対露戦争を決断したとき、軍部は旅順口及び朝鮮の仁川港のロシア艦隊に奇襲攻撃を仕掛けた。1904年2月8日のことである。この奇襲でロシア艦隊は甚大な損害を蒙った。そのため有効な反撃体制が組めず、戦争開始後六ヶ月間は日本軍にとって圧倒的に有利な状況が続いた。

ロシア軍があっけなく奇襲に屈したのは、かつての清国同様日本を甘く見て、日本に関する情報をろくに収集していなかったからだと言われている。それに対して日本側は、ロシアの実力を徹底的に調べていた。その情報量の違いが、戦況を大きく左右したわけである。

ロシア側では、その後体制を建て直し、兵員と艦隊を大幅に増強した。そのため戦況は膠着し、満州と朝鮮を舞台に戦闘は一年以上続いた。その一年間で日本軍の蒙った人的損害は約八万人、ロシア側のそれは四万人にのぼると言われる。

日露戦争のハイライトは旅順口をめぐる攻防と、日本海海戦だ。旅順口をめぐる攻防では、乃木希典将軍が先頭になって、次口と難関を突破したが、無理な作戦もあって、ロシア軍を上回る戦死者を出した。この際の戦いの英雄として肉弾三勇士というものがはやし立てられた。映画でもなじみになった兵士たちだ。その頃から日本軍は、兵士に精神主義を期待していたわけである。日本海海戦は、知将東郷平八郎の戦略勝ちだった。東郷は、ロシアを出発したバルチック艦隊が、対馬海峡を通ることを予想して、待ち伏せを仕掛け、一気に襲い掛かって敵艦隊に大打撃を与えた。バルチック艦隊は三分の二にのぼる戦力を喪失したのである。

陸海にわたって日本の優位な状況が続いたが、決定的な転換要因となったのは第一次ロシア革命の勃発だった。第一次ロシア革命は1905年2月に勃発したのだが、ロシア政府はその対応に追われ戦争を継続する余裕を失った。そんなわけで、その年の夏ごろにはロシア側から講和の意向が示されるようになった。その意向を受けた形で、アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトが仲介に入り、講和に向けての交渉が始まった。その結果、9月5日に講和条約が結ばれた。アメリカのポーツマスを舞台にした講和会議だったので、ポーツマス条約と呼ばれている。この講和の立役者となったルーズヴェルトは、平和への貢献が評価されノーベル平和賞を貰うことになった。なお、日本としても、早めに講和できたのは幸いだった。日本の国力では、それ以上ロシアを相手に戦うことは困難だったのである。

講和条約の主な内容は次のとおりである。①朝鮮半島における日本の優越権を認める、②樺太の南半分を日本に譲渡する、③東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する、④旅順、大連の租借権を日本に譲渡する。ロシアが満州にもっていた利権を日本が引き継いだ形のものが中心だが、中国としては、自分の領土を第三者によって勝手に処分されたわけで、いわば輪姦されたようなものだった。

ともあれ日本は、満州で得た利権を手がかりにして、その後対中政策をエスカレートさせてゆく。その前に、満州支配の体制を整えねばならなかった。日本が満州で得た利権のうち最も重要なのは、南満州鉄道とその沿線の土地であった。日本はそれらの利権を運用する為に満州鉄道会社を立ち上げると共に、利権の保護を名義に軍隊を駐留させるようになった。いわゆる関東軍である。この二つの組織が以後日本の満州侵略の先鋭部隊となっていくのである。(満鉄の設立は1906年、関東軍の前身関東総督府守備隊は1905年)



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