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日本による韓国併合:近現代の日中関係


辛亥革命の前年(1910)、日本は韓国を併合した。これは基本的には日本と韓国の問題で、清国は直接の関係はもたなかった。日清戦争の敗北を受けて、清国は従来朝鮮とのあいだで持っていた宗主権を放棄していたからである。その朝鮮は1897年に国号を大韓帝国に改めていた。これにともない従来の朝鮮王は大韓帝国皇帝となった。皇帝への変化は、清国への服属から脱して独立国になったことをアピールしていたとともに、絶対主義的な君主制の確立を目指したものであった。しかし独立の夢はかなわなかった。韓国は日本によって併合されてしまうのである。

日韓併合は、とりあえず清国には直接の影響を及ぼしたわけではないが、日本は韓国を植民地化することで大陸進出への強固な足場を獲得し、以後中国侵略を進めていくわけであるから、長い目で見れば、中国にとっての災厄につながっていくものとして、看過することはできない。

日本の韓国併合は、直接的には日露戦争に勝利したことの延長の出来事である。日露戦争自体が朝鮮をめぐる覇権争いだったわけで、それに勝利した日本は、朝鮮への支配を進めていく。その動きの先に、韓国併合が行われたのである。

日露戦争に際して韓国は局外中立を表明したが、日本は力ずくで「日韓議定書」を成立させ、韓国の日本への強力を迫る一方、韓国領土内に日本軍を進駐させる権利を得た。その動きは、一つには日露戦争対策という面を持っていたが、他方では、日本の長期的な対韓政策を反映したものだった。日本は韓国を保護国化する方針をすでに日露戦争以前の1901年に固めていたのである。その時点では、併合までは視野に入っていなかった。併合となれば、韓国に利権を持った列強諸国の介入を招く恐れがあったからである。保護国化であれば、一応韓国の独立を保障したことになり、その分各国との軋轢を避けることができると考えられていた。

もっとも併合を主張する意見がなかったわけではない。山県有朋や桂太郎などはその急先鋒だった。それに対して、初代朝鮮統監になった伊藤博文は保護国化主義を主張していた。その伊藤が自分の意見を引っ込めたことで、併合への動きが本格化するのである。

日韓議定書は1904年2月に成立したが、同年8月には「第一次日韓協約」が成立し、日本の韓国支配は一段と強まった。これによって日本は韓国の外交権を実質的に掌握し、また財政はじめ内政への関与を深めることとなった。保護国化に向けて重大なステップを踏んだのである。

日本は韓国の保護国化を列強に認めさせる動きを強めた。手始めにイギリスに働きかけた。イギリスとの間では日英同盟の延長問題があったが、1905年に「第二次日英同盟」を締結し、そのなかで、日本がイギリスのインド支配を認めるかわりにイギリスに日本の韓国支配を認めさせた。またロシアとの間では、「日露講和条約」の中で、日本の韓国支配が明記された。アメリカとの間でも「タフト・桂協定」を結び、日本がアメリカのフィリピン支配を認めるかわりにアメリカに日本の韓国支配を認めさせた。

1905年11月には「第二次日韓協約」が締結され、韓国の保護国化はほぼ完成の域に近づいた。韓国は外交権を完全に失い、また内政への日本の介入を許した。日本は韓国支配機関として統監府を置き、伊藤博文がその初代統監となった。この「第二次日韓協約」締結の日本側責任者は伊藤であり、かれはありとあらゆる脅迫手段を用いて、韓国に日本の要求を飲ませた。そうした歴史的な事実を踏まえて、韓国・北朝鮮には、第二次日韓協約は無効であり、その結果としての日本の朝鮮半島支配はそもそも無効であるとする見解が広く普及している。

日本のやり方に憤慨した高宗は、各国に日本の不当を訴えた。1907年6月にハーグで開かれた国際平和会議に密使を送り込んで日本の不当を訴えもした。そうした高宗を快からず思った日本政府は、高宗を強制して皇太子に譲位させた。

1907年7月には、「第三次日韓協約」が結ばれ、韓国は外交内政全般にわたって自主権を取り上げられた。これによって韓国の保護国化すなわち植民地化は完成した。

日本による保護国化という形の侵略に対して、韓国内では広範な抵抗運動が起きた。各地で義兵が蜂起し、日本に協力した政治家を襲撃する一方、日本の機関にも攻撃を加えた。これに対して日本は軍隊を動員して徹底的に弾圧した。1907年から日韓併合の1910年までの間に、日本軍と義兵との交戦は2800回以上にのぼり、参加した義兵は14万人にのぼる(朝鮮駐箚軍司令部資料)。

1909年10月に伊藤博文が安重根によって暗殺されたのは、こうした愛国運動の一環だったといえる。安重根は検察官の取調べに対して答えた「伊藤博文の罪状十五か条」の中で、「日本は日露戦争に際して、東洋の平和を永遠に維持するといい、韓国の保全を重視すると明言したにもかかわらず、伊藤は保護条約を韓国に強制し東洋の平和を乱した」と主張している。

伊藤は暗殺される直前に、保護国化主義から併合路線へ考えを変えていた。それを踏まえて桂らは併合への道を突き進んだ。最大の課題は、列強の承認を取り付けることだった。保護国化は一応韓国の独立国としての体裁を維持したものだったが、併合となると韓国は国としての名目もなくなり、完全に日本に吸収されてしまう。それを列強に認めさせねばならない。

日本はロシア、イギリスから相次いで併合への同意を取り付けた。これに気をよくした桂ら日本政府は、併合に取り掛かった。1910年5月に統監となった寺内正毅が併合条約締結の日本側責任者になった。併合は、韓国皇帝が日本の天皇に譲位するという形、それも韓国側から申し出て日本がそれを受け入れるという形をとった。当時国家間の併合は、戦争の結果として戦勝国が敗戦国を占領支配する場合を想定しており、日韓関係の場合にはそういう想定が当てはまらないので、苦肉の策として、韓国が自主的に併合を希望したという形をとったのである。

日韓併合の結果、韓国は国としての実体を失い、韓国人は大日本帝国臣民となった。だがその韓国人に日本の憲法は適用されなかった。韓国人は日本の憲法によって統治されるのではなく、日本から派遣された朝鮮総督によって統治・支配されることになったのである。日本人であって日本の憲法が適用されない。政治的な自主権を奪われただけでなく、日本人にはともかく保証されていた様々な権利が、韓国人からは奪われたままだったのである。

そのような動きを、中国人も複雑な感情で眺めていたに違いない。国が滅びるということは、どのようなことか。中国人は、隣人たる韓国人の命運から、それを学んだはずである。



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