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日本の華北侵略と抗日民族統一戦線


満州に傀儡国家満州国を成立させ、満州支配の基盤を固めた日本は、ついで華北の侵略へと転じた。その突破口となったのは、熱河作戦(1933年)である。これは長城を越えて北京・天津を射程におさめた作戦だった。戦禍が北京にまで及ぶのを恐れた中国側の要望にもとづいて、塘沽協定が結ばれた。この協定で、冀東(河北省北東部)を非武装地帯とし、中国軍は駐在しないこと、また日本軍は長城線まで撤退することが定められた。これは長城線を以て日中の勢力圏の境界とするもので、日本による満州国の領有を事実上認めたものであった。それに加え日本は、長城線まで勢力圏を拡大することとなった。

塘沽協定後も日本は華北侵略の野心を隠さなかった。満州国同様、冀東にも傀儡政権を作り、それを通じて支配するという戦略がとられた。河北分離工作と呼ばれるものである。その結果、1935年11月には親日派の政権である冀東防共自治委員会が成立した。中国側ではこれを認めず、独自の地方政権を設けたが、日本側の影響力は高まるばかりだった。こうした動きは、支那駐屯軍を中心とする現地の軍部が主導していた。支那駐屯軍は、義和団事件をきっかけにして天津に置かれたもので、以後華北地方への日本進出の足がかりとなっていく。

現地の動きを日本政府も追認した。1936年1月には、岡田内閣が「北支処理要綱」を策定し、華北五省(河北、チャハル、綏遠、山西、山東)の中国からの分離を表明した。また岡田内閣が二・二六事件で倒れた後は、広田内閣が「第二次北支処理要綱」を策定して、華北五省の分離政策を再確認した。日本の華北侵略は国策としての位置づけを与えられたわけである。この方針がやがて日中戦争を引き起こすこととなる。

こうした日本の動きに対して、中国のナショナリズムは高まっていった。そのナショナリズムは、抗日民族統一戦線の結成を目指すようになった。具体的には国共が合作して日本に対抗せよというものである。この要求に対して、国民党の指導者蒋介石は否定的な反応を示した。かれの関心は、日本と対決するよりは共産党を叩くことに傾いていたのである。そのため、日本に対しては妥協的な姿勢に終始した。その妥協ぶりは「恐日病」と揶揄されたほどである。

中国共産党は、1921年にコミンテルン中国支部として結成されて以来、コミンテルンの方針もあり、また孫文の容共政策もあって、国民党と共同していたが、1927年に蒋介石が北伐を成功させたことにともない、敵対関係に陥った。結成以来上海を活動拠点としてきたが、上海に国民党の勢力が伸びるといられなくなり、江西省南東部の山岳地帯に退いて、そこを革命拠点と称した。その勢いには侮り難いものがあり、一時は湖南省の省都長沙を武力占領したほどだった。だが次第に蒋介石に追い詰められ、江西省の革命拠点を放棄、西に向って移動せざるを得なくなった。1934年10月に始まる、いわゆる長征である。

中国史を彩る長征については、エドガー・スノーの「中国の赤い星」に詳しく描かれている。スノーは長征の旅に随行し、後に中国共産党の指導者となる人々の若き日々の面影について語っている。長征の結果、中国共産党の主力部隊が陝西賞の北部延安に到着したのは1936年秋のことであった。江西省を出発してから一年後のことである。その動きを知った蒋介石は早速殲滅にとりかかった。だが共産党はそれを撃退して、陝西省の北部に強固な拠点を構築する。

日本の華北侵略を前にして、共産党は抗日のための民族統一戦線をめざす方針を決定した(1935年12月)。それには、「反ファシズム・反侵略のための統一戦線」結成を呼びかけるコミンテルンの方針が影響した。共産党のそうした方針は、蒋介石を排除して、その他の勢力を想定したものだったが、中国は蒋介石が実質的に統治しており、蒋介石なしでの民族統一戦線は絵に描いた餅のようなものだった。そこで共産党は次第に蒋介石との共闘を考えるようになるが、蒋介石のほうは相変わらず、抗日よりも反共を優先していた。

抗日民族統一戦線の結成について、決定的な役割を果たしたのは張学良である。張学良は父親の張作霖が日本軍によって爆殺されたあと、父親の勢力を相続して東北軍を率いていた。その東北軍を動員して共産党を叩けというのが蒋介石の命令だった。張学良は当初その命令に従い共産党への攻撃を繰り返したが、頑強な反撃にあって甚大な損害を出した。また東北軍の将校の中からは、共産党と戦うことは中国人同士が殺しあうだけで、日本を利するだけだという意見が強まってきた。そうした状況に直面して、張学良は考えをめぐらした。

張学良は、共産党との間で相互不可侵の取り決めを結び、周恩来と秘密会談を行うなど、共産党との共同の動きを追求するようになった。その結果、張学良が首班となり、それに共産党が協力する形の、反蒋抗日の国防政府を蘭州に成立させようという「西北大連合構想」が合意されたりした。その後共産党の方針が変り、蒋介石を含めた抗日民族統一戦線の結成をめざすようになると、張学良はそれに向けて蒋介石を説得することを考えた。

その結果起きたのが、いわゆる西安事件だった。西安にやって来た蒋介石を張学良が拘束し、共産党と協力して民族統一戦線を作るべきだと諫言した事件である。蒋介石が西安入りしたのは、共産党叩きに熱心でない張学良を叱責するためだった。それが叱責するどころか、かえって身柄を拘束され、あまつさえ宿敵共産党と手を結ぶように諫言されたのである。蒋介石は無論その諫言をはねつけた。だが張学良はなかなかあきらめなかった。蒋介石はついに折れた。それについては、(蒋介石の義兄弟)宗子文による斡旋とか、宋美齢による説得とか、人間ドラマ的な要素も指摘できる。ともあれ結果的に、蒋介石は抗日民族統一戦線に加わり、日本を唯一の敵として戦う決意をしたのである。中国現代史にとって第一級の重大事件であった。

張学良がその後、蒋介石と共に南京に赴き、そこで身柄を拘束され、戦後も蒋介石と共に台湾に移動したことはよく知られている。蒋介石は、張学良の言い分は呑んだが、かれの自分に対する仕打ちを許す気持にはなれなかったのである。



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