日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




日中戦争:近現代の日中関係


日中戦争は始まるべくして始まったと言ってもよい。日本は朝鮮半島を植民地化し、更に満州を支配下に置き、華北地方までもぎ取ろうとする勢いを見せていた。当時の日本の支配者たちに、どれほど中国を侵略する明確な意図があったか、断定的なことは言えない。歴史上の出来事から推測する限り、日本の中国政策には、かなり偶然的な側面が指摘できる。だが、大局的に見れば、日本に中国支配の野望があったことは間違いない。日本人には、秀吉以来、中国大陸を支配したいという野望があり、それを維新の元勲たちも共有していた。その野望を昭和の為政者が受け継いでいたことは不思議なことではない。

日中戦争が始まったのは満州事変が起きた1931年と言ってよい。満州事変をきっかけにして、日本は中国の領土を侵略したわけだから、宣戦布告こそしてはいないものの、実質的には戦争をしかけたといえる。その戦争が拡大しなかったのは、中国側に十分な準備が整っていなかったからだ。中国では、一致団結しての抗日よりも内輪もめのほうが優先されていた。蒋介石は、日本と対決することよりも、共産党を叩くことに熱心だった。だが西安事件をきっかけとして、その蒋介石と共産党との間で、統一戦線の機運が高まった。中国側にも、挙国抗日戦争への準備が整いつつあったのである。

そういう状況の中で、1937年7月に盧溝橋事件が起きた。これは偶発的な事態(日本兵一名が行方不明、後に復帰)がもとで起きたものであり、満州事変のときのような周到に準備された謀略ではなかったが、それがきっかけとなって大規模な武力衝突に発展し、それが更に日中間の全面戦争へと発展していくのである。以後1945年夏までのほぼ八年間、日中の間では過酷な戦争が続く。その戦争は、中国が戦場になったこともあり、中国側に絶大な損害をもたらした。中国当局の公式発表では、日中戦争による中国人の死者は、兵士及び一般市民あわせて2000万人にのぼる。

盧溝橋事件が起きたのは7月7日の夜から翌日にかけてのことだが、11日には、日本側はこれを「北支事変」と命名し、中国側の計画的な犯行だとして、「暴戻なる支那を膺懲」するために、華北への派兵を決定した。かくして、北京・天津地区での大規模な軍事衝突となった。兵員の規模では中国側が上回っていたが、日本軍は中国軍を蹴散らした。勢いに乗った日本軍は、北京から西へと戦線を拡大させていった。

華北での戦線拡大を尻目に、蒋介石は上海で日本軍を叩き、列国の介入を得て、有利な条件で矛を収めるという戦術をとった。それに基づいて行われたのは、上海事変をきっかけとした日中正面対決である。上海事変自体は、日本海軍陸戦隊の将校が中国側に殺害されたことがきっかけで起きたものだが(8月9日)、これが日中戦争に更に火をつける結果となった。日本側は上海事変と北支事変とをあわせて支那事変と呼び、以後それが日本側での日中戦争の呼び名となった。

蒋介石の期待に反して、列強は無介入の姿勢をとったが、ソ連は中国に味方して、「中ソ不可侵条約」を締結したうえで、物資上の援助を行ったりした。また中ソ接近を受けたようなかたちで、第二次国共合作が実現した。それには西安事件が大きく働いたということもある。国共合作の結果、華北の紅軍は八路軍として、華中・華南の紅軍は新四軍として、中国正規軍に組み入れられた。ここに国共が一致して日本と対立する構図ができあがったわけである。ともあれこうした中ソ接近の動きが、1939年のノモンハン事件につながったと見ることも出来る。

上海戦は、巨大な規模になった。日本側は20万人、中国側は40万人の兵力を投入した。中国側は正規軍の精鋭部隊が中心となっていたが、装備で勝る日本軍の前には到底かなわず、総崩れとなった。三ヶ月に及ぶ攻防戦で、上海の町は瓦礫の山と化した。租界地域を除いてすべての街区が破壊された。この戦闘で、中国側の死者は33万人、日本軍の死者は9000人、負傷者は3万1000人にのぼった。

上海を制した日本軍は、首都南京を目指した。首都南京を落とせば、敵は降参するだろうという見込みの上である。だが蒋介石は、首都機能を重慶に移し、徹底抗戦する姿勢を見せた。講和への動きも見られたが、日本側が中国の敗戦を前提にした過酷な条件を突きつけたので、成立することはなかった。日本側は、近衛内閣が、「爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更正新支那の建設に強力せんとす」との声明を出した。蒋介石の政府を相手にせず、日本が作った傀儡政権との間で、国交関係を結ぶという宣言である。

じっさい日本は、華北の占領地域に幾つかの傀儡政権を作って、それを通じて間接支配をする体制を作り上げていた。その体制を中国全土に適用し、中国を間接的に植民地支配しようという欲望をむき出しにしたのである。傀儡政権の例としては、張家口の蒙彊連合委員会、北京の中華民国臨時政府、南京の中華民国維新政府などがある。王精鋭が1940年3月に南京に結成した国民政府は、そうした傀儡政権の仕上げのようなものである。その傀儡政権が中国の民衆を代表することはなかったが、日本としては、軍事上利用価値の高いものであった。フランスの、第二次大戦中の対独協力政権のようなものである。

破竹の勢いの日本軍は、武漢や広東まで占領し、中国主要都市のほとんどを押さえた。だが、それはいわば「点と線」に限られ、広大な中国を隅々まで支配するには至らなかった。一方中国側は、日本軍と正面から戦っても勝ち目がないので、ゲリラ戦をはじめさまざまな戦法に訴えた。中国側の戦勝事例としては、1937年9月の平型関での勝利、1938年4月の台児荘(山東省南部)での勝利などがある。前者は林彪率いる八路軍が山西省北部で日本軍をゲリラ的に攻撃勝利したというものであり、後者は李宗仁率いる広西軍が5000の日本軍を攻撃して、その大半を壊滅させたというもので、日本側に大きな衝撃を与えた。

日本側が最も手を焼いたのは、ゲリラ攻撃である。ゲリラ攻撃は、華北を中心にして抗日根拠地を築き上げた共産党が得意としたものである。抗日根拠地では、日本軍による収奪に怒りを覚えていた民衆が、積極的にゲリラ攻撃に加わったとされる。そうした民衆規模の抗日活動の実態は、莫言の小説「豊乳肥臀」などに詳しい。

ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、抗日根拠地を中心に徹底的な掃討作戦を展開した。 燼滅作戦と称され、「敵をして将来生存する能わざるに至らしむ」ことを目的として、徹底的な殺戮・破壊を行った。これは中国側では三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)と呼ばれ、その非人道ぶりが激しく非難された。



HOME 近現代日中関係史次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである