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南京事件:近現代の日中関係


日中戦争の初期に起きた南京事件は、南京大虐殺とも呼ばれるように、日本軍による中国人軍民に対する大規模な虐殺事件として、日中戦争史を暗く塗る事件であった。しかしその全容はいまだ明らかになっていない。事件の経緯も不明確な部分があるし、死傷者の数も明確になっていない。中国側を代表すべき国民党政権が、事件の詳細を調査できる態勢ではなかったし、日本側においては、調査の意図そのものがなかった。それどころか、日本軍は南京事件について国民に知られることを嫌い、徹底した報道管制をしたために、国民は日本が南京を占領したことは知らされたが、そこで何が起きたのかについては全く知らなかった。日本国民が南京事件について知らされたのは東京裁判を通じてである。東京裁判の中で突然南京事件が裁かれたので、国民は俄には信じられなかった。その頃の日本国民は、戦争に対する被害者意識は抱いていても、対戦国の中国に対して、自分の国が言語に絶する不法行為を働いたとは、なかなか信じることができなかった。そういう気分は、いまだに影響力を及ぼしている。そういう気分がまだあるからこそ、南京事件など起こらなかったという言説が、一定の効果を持つのだと思う。

南京事件について知らなかったのは日本の国民だけで、欧米では広く知れ渡っていた。事件当時南京に滞在していたジャーナリストや社会活動家たちが、事件の詳細を母国に発信し、それが新聞等を通じて広く報道されたためだ。その報道に接した欧米諸国の人々は、日本は国際法を守らず、非人道的に人を殺す無法国家だと考えるようになった。こうした日本への敵愾心が醸成されていたために、南京事件は、東京裁判における唯一具体的な戦争犯罪として、特別に裁かれたのであった。

日本は東京裁判の結果を無条件に受け入れたので、いまでも東京裁判における事実認定が、南京事件に関する情報源として用いられる場合が多い。だがその事実認定には批判すべきものも多い。たとえば、中国側の人的被害について、裁判の過程で異なった数字が出された。その数字の中には、中国人死者43万人というものもあったが、これは誇大な数字だと「東京裁判」(中公新書)の著者児島襄は批判している。とはいってもそれに代る数字を挙げることもできない。正確な数字を求めるのは不可能だと言うのである。東京裁判の判決文の中で言及されている数字としては、「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている」というのがある。また、南京軍事裁判では、「被害者総数は30万人以上に達する」と事実認定されている。いまではこの30万人というのが、中国側の公式の主張となっている。それに対しても批判はある。日本近代史に詳しい半藤一利は、「昭和史」の中で、旧日本軍関係者が出版した「南京戦史」などをもとに、捕虜・便衣兵などの死者1万6千人、一般市民の死者1万5760人と見積もっている。「南京事件」(岩波新書)の著者笠原十九司は、「十数万人以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」としている。

笠原の著書は1997年刊行であり、南京事件を扱ったものとしては、もっとも多くの情報が盛り込まれていると考えられるので、小生のこの文章はそれに依拠するところが多い。

南京事件は、1937年12月13日の日本軍の南京入城から翌1938年3月28日の中華民国維新政府の成立に至るまでの、三ヶ月あまりの期間にわたる。このうち南京攻略の総司令官松井石根が1937年12月22日に上海に向けて南京を離れるまでの九日間がもっとも熾烈を極めた虐殺の時期である。また南京入城に先立って、南京城区周辺の区でも虐殺や略奪が行われており、1937年8月15日以降には海軍による南京及びその周辺への空襲も行われていた。海軍による空襲は、海軍内の航空戦派と呼ぶべき勢力が主導したもので、その首魁は山本五十六だったと笠原は指摘する。山本は航空戦力の有効性を証明するために、南京空襲を実施したというのである。この前哨戦としての空襲におびえた市民の多くが、南京事件が始まる前に他の土地へ遁れていたということだ。なお、南京の人口は、南京事件前には南京城区が約100万人、周辺の六区あわせて150万人、総数250万人ほどだった。それが南京入城の時点では、南京城区の人口は半減していたという。周辺六区の人口もやはりかなりな減少を示していたようだ。

日本政府や軍部中枢には、当初南京攻略の意志はなかった。上海を攻略することが当面の目的であり、国民党政府の首都南京を攻撃することは念頭になかったのである。ところが、軍内部、とりわけ参謀本部の中堅幹部の中に好戦派がいて、その連中が、いわば下克上の形で南京攻略戦を進めたとうのである。このとき、戦局の拡大を制止する不拡大派を参謀本部第一部長の石原莞爾が代表し、拡大派を石原の部下で作戦課長だった武藤章が代表していた。この両者の間で暗闘があり、それに勝った武藤が石原を追放して、南京攻略作戦を進め、自らその部隊に異動して陣頭指揮にあたった。武藤は東京裁判では、松井とともに死刑判決を受けている。

南京攻略の実施部隊は、中支那方面軍だった。これは上海派遣軍と、俄編成の第十軍からなっていた。この軍隊は大いに問題を抱えていた。上海派遣軍は三ヶ月に及ぶ厳しい戦闘で疲弊し、戦友の多くが殺されたことで、中国軍民に対して激しい憎悪を抱いていた。一方第十軍は、俄編成ということもあり、正規兵の割合が極端に低く、大部分は年配の予備役だった。ろくな訓練をせずに、いきなり戦線に投じられたために、軍規が非常に乱れていた。しかもこの方面軍は、俄編成ということから、軍隊としての体裁をかなり欠いていた。たとえば、兵士の暮らしを支える兵站部門は存在せずに等しく、部隊は食糧等の現地調達を迫られた。これが略奪を促す要因となり、略奪が殺害に発展するきっかけとなった。また兵士の掌握に必要な憲兵部隊も存在しないに等しかった。こういう事情のもとで、日本兵の中国軍に対する異常な敵意が働いて、中国軍民に対する虐殺を加速させたといえるのではないか。

俄編成の象徴ともいうべきは、方面軍総司令官の松井石根であった。松井は現役を引退して予備役になっていたところを、将軍の不足から、臨時的に駆り出されたのである。松井は現役時代大した軍功をあげられなかったので、異常な功名心を持っていたといわれる。しかも持病の結核が進行していて、とても大部隊を指揮できるような状態ではなかった。司令官としては最低の資質だったわけである。そういう無能ともいうべき司令官を戴いた部隊が、軍規を全く欠いた状態で南京に突入した。南京事件は、いわば起こるべくして起きたと言えるのである。

事件の詳細については、ここでは述べる余裕がない。一つ指摘しておきたいのは、事件についての情報の多くが、当時南京に滞在していた外国人によって集められたということである。それらの外国人を分類すると以下のようになる。まずジャーナリスト。ヒルマン・ダーディン(ニューヨークタイムズ)、アーチボルド・スティール(シカゴ・デーリー・ニューズ)、L・C・スミス(ロイター)、C・Y・マクダニエル(AP)がそれぞれ特派員として事件の状況報告を送り、それが新聞等で報道された。次は各国の大使館で、特にアメリカ大使館とドイツ大使館は、事件の状況を母国政府に報告していた。三番目は南京難民区国際委員会と称する社会活動団体であり、かれらは中国兵を含めた中国人難民の保護に努める一方で、南京で日本軍が行っている蛮行を世界に向って知らせた。

こうしたことが南京事件に関する情報を世界に広めた。その結果日本は決定的に評判を落とし、文明国とは見なされないようになっていった。日本は世界に先駆けて南京を無差別空爆し、また市民の無差別虐殺を行った。そういうような野蛮な民族性と見なされたことが、以後アメリカをはじめ各国の日本を見る目に大きな影を与えた。その影が、東京空襲とか広島・長崎への原爆投下につながっていった面はある。日本には被害者面する資格はないというわけである。



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