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アジア太平洋戦争:近現代の日中関係


日中戦争が泥沼化する一方で、日本は別の戦争を始めた。対米英開戦である。1941年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃、ほぼ平行して、東南アジアにおける英艦隊を攻撃するとともに、マレーシアからシンガポールを経てインドネシアに至る広大な地域を占領した。これによってアメリカ、イギリスが日本に宣戦布告し、世界中が連合国と枢軸国に分かれて相戦う事態となった。これを歴史学では第二次世界大戦と呼んでいるが、日本ではアジア太平洋戦争とか、あるいは(一部で)大東亜戦争などと呼ぶことが多い。

米英の対日宣戦布告と歩調をあわせて、中国の国民政府も日本、ドイツ、イタリアに対して宣戦布告した。これによって中国は、連合国の主用メンバー入りすることとなった。1942年1月の「連合国共同宣言」によって連合国軍が結成され、中国戦線は連合国中国戦区と位置づけされて、蒋介石が最高司令官に任命された。つまり、これまで日中二カ国の戦争だったものが、日本対連合国の戦争に転化したわけである。連合国との戦いを日本側では、ABCD包囲網との戦いと称した。A(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)を相手にした戦争という意味である。

日本の対米英開戦は、余りにも無謀な選択であったが、日本側にはそれなりの事情があった。日本の中国侵略が拡大するにつれて、米英とくにアメリカの対日政策に顕著な変化が起こった。アメリカは日本への圧力を高めるために石油等資源の対日輸出を制限するなど、強硬な政策をとるようになった。それに対抗して日本は南進政策に踏み切った。これは東南アジアに進出することで、石油などの資源の確保を図る一方、東南アジアを経由する米英の対中援助を遮断しようというものだった。それに対して米英は、国民政府への借款など、対中援助を強めた。こうしたいたちごっこが次第に日本を追い詰め、いわば窮鼠猫を噛むような形で、日本は対米英開戦に踏み切ったのである。いづれにしても、日中戦争がいきづまったことが、アジア太平洋戦争を招いたといえる。

日本は緒戦では威勢がよかった。ハワイのアメリカ艦隊に壊滅的な打撃を与えたし、またシンガポール方面の英艦隊も壊滅した。東南アジア諸国の占領もとどここおりなく進んだ。シンガポールでは、占領の過程で日本軍による華僑の大量(約5000人)虐殺というおぞましい事件も起きている。ノモンハン事件を主導した辻政信が参謀となった作戦で、虐殺を指揮したのも辻だったとされる。辻は要領のいい男で、戦争責任を深く追及されなかったばかりか、戦後参議院議員にまで上り詰めたのだが、東南アジア訪問中に忽然と姿を消した。一説によると、戦時中の蛮行に対して復讐されたという。

蒋介石の国民政府は、アメリカからの武器援助を受け、またスティルウェルを軍事顧問に迎えたりして、日本への反撃につとめた。1942年3月には、国家総動員法を制定し、対日総力戦態勢を整える。これに対して日本は、傀儡政権である王精鋭の政権を中国の代表と擬制し、国民政府とは敵対した。国民政府を中国の代表として認めない立場から、正式な宣戦布告をすることもなかった。だが、国民政府軍の反撃が強化されたことは、感じないではおれなかった。また、太平洋諸島での対米戦にあいついで敗北するようになると、ようやく事態の重大性に気付くようにもなる。日本は国民政府に打撃を与えることを目的として、1942年9月に重慶攻略の準備にとりかかるのだが、12月には中止せざるを得なかった。それだけの準備が整わないほど、事態が急迫していたのである。

1943年に入ると、日本軍のガダルカナル島からの撤退やイタリアの降伏といった事態が起こり、戦局が連合国軍に圧倒的に有利になる。それを受けた形で、1943年11月に、米英中三カ国の代表がカイロで会議を催し、いわゆるカイロ宣言を出した。これはアメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、中国の蒋介石が出たもので、対日方針としては以下のような内容が含まれていた。日本の無条件降伏、台湾・満州の中国への返還、朝鮮の独立などである。これを受けて中国では、早速「台湾調査委員会」が設置され、接収に向けての準備が始まった。満州については、ソ連が深く関っており、その意向を無視するわけにはいかなかったので、台湾ほど接収の準備は進まなかった。

ソ連は独ソ戦を通じて対独戦争の第一線となったこともあるが、対日関係についても重要な役割を期待された。ローズヴェルトは、蒋介石だけでは日本に勝てないと考えていた。蒋介石の軍隊は弱く、日本軍の相手にならなかった。中国国内にいる数十万の日本軍を敗退させるためには、ソ連軍の介入が不可欠だと考えていたのである。ソ連は日本との間で不可侵条約を結んでいたが、スターリンは、それは方便であって、いつでも解消することができると考えていた。だが独ソ戦が終わらないうちは、対日戦に乗り出す余裕はなかった。そこで独ソ戦が終わってひと段落した時点で対日戦に加わるつもりでいた。対日戦勝利の分け前は魅力的だったからである。

そのスターリンを加えて、米英ソの三カ国首脳がヤルタに集まり、いわゆるヤルタ密約を交した。これは蒋介石不在のまま、ソ連の中国への利権を確認するというもので、以下のような内容を含んでいた。外蒙古の現状維持(ソ連の影響力を認める)、大連・旅順におけるソ連の利権確保、中東鉄道・満鉄線の中ソ合弁とソ連の特殊権益の保証などである。これは蒋介石の居ないところで勝手に中国の主権を侵害するものであり、当然のことながら、蒋介石は激怒した。しかし実力の乖離を考えれば、認めざるを得なかった。そのかわり、ソ連が中国共産党を援助しないように釘をさした。

1944年4月、日本は「大陸打通作戦」という起死回生の動きに踏み込んだ。これは、華北からベトナム国境地帯にかけて、中国の鉄道網と主要都市を占領し、大規模な攻勢を目的とするものだった。打通は成功し、日本軍は中国軍に攻勢を加えたが、それで日中戦争の大勢に大きな変化が起きるわけでもなかった。ただ、日本軍の攻勢の前で、退却し続ける国民政府軍の情けなさだけがクローズアップされた。蒋介石の軍隊は弱すぎて頼りにならず、また蒋介石の政府は腐敗に蝕まれている、といった見方が中国民衆の間に強まっていった。それが、戦後の国共内戦で、蔣介石側が苦戦する最大の理由である。民衆から見はなれた者は、支配の座を降りざるを得ないのだ。

1945年に入ると、大戦の帰趨にとって決定的な事態があいついで起きた。4月には米軍が沖縄に上陸、5月にはドイツが降伏、また中国戦線でも日本軍の敗退が目立つようになっていった。そうした事態を受けて、7月に米英ソの三国首脳がポツダムで会談し、いわゆるポツダム宣言を出した。日本については次のような項目が含まれていた。日本の軍事勢力の除去、日本の占領、領土の縮小、戦争犯罪人の処罰、などである。この宣言は7月26日に発せられ、日本の無条件降伏が求められたが、日本側はなかなか受諾する決意ができなかった。そうしているうちに、広島・長崎に原爆が投下され、ソ連が対日参戦した。ことそこにいたって日本政府は、8月10日に、天皇制の護持を条件として降伏を受け入れたのである。ここに上海事変以来八年間、満州事変から数えると十四年間にわたる日中戦争が、最終的に終わることとなった。



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