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国共内戦と中華人民共和国の成立:近現代の日中関係


日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したという情報は8月10日に中国に伝わり、臨時首都重慶の町は喜びにあふれた。8年間に及ぶ過酷な戦争がやっと終わったのだ。それも中国の勝利という形で。日本の天皇があの玉音放送を日本国民に向けて行った8月15日には、蒋介石が中国国民に向かって勝利宣言のラヂオ放送を行った。この勝利は、欧米の連合国に日本が敗れた結果であって、中国が武力で日本を破ったわけではなかったのだが、中国ではとにかく、どんな理屈でもよいから、日本に勝利したという言説が支配したのである。

一方、日本のほうでは、中国に負けたという認識は、ほとんどなされなかった。日本が負けたのは英米に対してであって、中国との関係についていえば、軍事的には日本が圧倒的な優勢を保っていた。言ってみれば、本店(対欧米戦線)がこけたから支店である優良な店(中国戦線)まで道連れにされたというような認識が流通していた。それでもやはり敗北は敗北だ。日本は、中国戦線でも武装解除に応じざるを得なかったのだ。もっとも中国内の複雑な権力関係を受けて、日本軍の一部が中国共産党軍と戦闘を続けた例はあったが。

日本の敗戦は、それまで抗日で一致していた国共両勢力の関係に大きな影響を及ぼす。共通の敵がいなくなったことは、両者を結び付けていた紐帯がなくなったということだ。国共両勢力は、一致から分裂、さらに内戦に向けて突き進んでいくのである。

蒋介石は、すでに終戦前から、戦後の共産党との対決を予想し、それに向けて様々な手を打っていた。共産党の影響力が高まらないように、共産党の活動に制限を課し、また共産党の勢力が強まった地域では積極的に攻撃した。1941年1月の華中の新四軍への攻撃・武装解除はその一例である。

一方共産党は、長征後に毛沢東の権威が高まり、一枚岩の組織になっていた。毛沢東は1943年には整風運動を起こし、党員の意識を高めることに成功していた。共産党は延安を根拠地として各地に革命拠点を作り、独自の政策で農民たちの支持を集め、勢力拡大につとめた。革命根拠地は華北に多く作られた。華中・華南は国民党の勢力が強かったために、そう大規模な攻勢はできなかった。

戦争が終わってとりあえず問題となったのは、日本軍の膨大な武器や、日本が残していった経済資源の接収であった。とりわけ満州には巨大な経済資源があり、また日本軍の武器も膨大な量が残されていたので、国共両勢力の奪い合いの対象になった。蒋介石は、それらの武器・資源が共産党の手に落ちることがないように、日本軍の投降の立会いを共産党には認めなかった。だが共産党は、独自の活動を行った。彼らは、満州・華北を拠点とするべく、勢力の大半をその地域に集中した。北進南防政策と呼ばれるものがそれである。これは、華中・華南の拠点は最小限の勢力で防衛し、華北・満州に勢力を集中するというものだった。そのため、新四軍の一部を華中・華南に残したほかは、八路軍はじめ武力の大半を華北に集めた。

その満州には、ソ連が怒涛の勢いで入ってきて、日本軍を蹴散らした上で、ヤルタ密約にしたがって、中東鉄道の接収や旅順・大連の占領を行った。スターリンは、戦後の中国は国民党中心に形成されていくだろうと考え、また、内戦の勃発を望んでいなかったので、表向きは蒋介石の政権に肩入れした。だが現地では、共産党の動きに肩入れすることもあった。じっさい共産党は、ソ連の黙認のもとに、日本軍から大量の武器を接収したのである。かくして国共両勢力は内戦に向けて突き進んでいくのである。

国共内戦は、1946年6月頃から本格化する。それは、華北の共産党政権と華中・華南の国民党政権との対決という形をとった。共産党は、華北・満州を事実上統治し、ある種の地方政権を築くまでになっていた。それらの地域では、小農民に有利な土地政策を実施したり、また共産党以外の民主勢力と幅広く協力することで、権力基盤を固めた。一方、国民党のほうは、戦後間もなくの間は、共産党を含めた幅広い政治勢力を結集し、議会を開いた上で新憲法を制定するという姿勢も見せたが、やがて共産党や民主勢力を排除して、1946年11月に一方的に制憲議会を開き、中華民国憲法を制定した。翌年1月に施行されたこの憲法は、なかなか民主的なものだったが、中国国内で実際に運用されることはなかった。蒋介石が台湾に移った後も、すぐに戒厳令が発令されたために、そこでも適用される機会は、なかなか訪れなかった。

ともあれ、国共内戦は全面的な軍事衝突に発展した。内戦勃発時、国民党の軍事力は430万人、共産党は130万人足らずだった。数の上では国民党が圧倒していたわけだが、勝ったのは共産党だった。その理由については、さまざまな要因が指摘できる。最大の要因は、経済の混迷が国民党に対する国民の支持を失わせたことだ。国民党政府の通貨政策の失敗や経済開放政策の破綻などが原因となって、すさまじいインフレが起き、それが中国民衆の生活を圧迫して、国民党への批判意識を高めた。また、民衆が生活に呻吟するのを尻目に国民党幹部の腐敗振りが怨嗟の的となった。国民党は次第に民衆から孤立し、敗北への道を歩んでいったのである。

それでも国民党は、内戦の初期には優勢に立っていた。1947年3月には、共産党の根拠地延安を占領し、毛沢東ら共産党幹部は山西省や河北省の山岳部を転々とせざるを得なかった。だが、1948年春から夏にかけて共産党の反撃が強まり、秋以降には、三大戦役と呼ばれるような大規模な戦闘で、共産党軍が相次いで勝利した。そうした勝利を受けて、共産党は各地に地域政権を樹立していった。1948年9月には華北人民政府、1949年3月には中原人民政府、1949年8月には東北人民政府といった具合である。その仕上げとして、1949年10月に、中華人民共和国の成立が宣言された。

共産党が勝利した要因は、色々指摘されている。ここでは久保亨の指摘を紹介する(「社会主義への朝鮮」シリーズ中国近現代史4、岩波新書)。

第一は、中国東北地域に兵力を集中し、そこを拠点として国民党軍と対峙するという戦略が効を奏したこと。第二は、農村地域における土地改革が成功し、農民の支持を集めたこと。農民の支持は兵力の供給を助けた。第三は、国民党軍への政治的な働きを強めたこと。その結果多くの部隊が戦わずして共産党の配下に入った。

いずれにしても、国民党が民心をつかめなかったことが、最終的な要因だと言えそうである。



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