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日中国交正常化:近現代の日中関係


池田勇人のあとをついだ佐藤栄作は、実兄の岸信介同様親台湾派で、大陸との関係改善には熱心でなかった。格上の同盟国アメリカも、台湾との関係を重視し、大陸の政権を敵視していると考えていた。ところがそのアメリカが、日本の頭越しに中国との関係改善に乗り出した。1971年7月にアメリカの国務長官キッシンジャーが中国を公式訪問し、米中間の国交正常化に向けた協議をしたのである。それを踏まえ、翌72年の早い時期にニクソン大統領が中国を公式訪問し、米中関係の正常化を実現する予定だとアナウンスされた。

米中接近にはそれなりの背景があった。中国側の事情としては、ソ連との対立があった。中ソは1960年代半ば頃から対立するようになり、1969年には国境をめぐる軍事対立にまで発展した。そういう情勢の中で、中国としては対米ソの二面作戦は避けたかった。そのためアメリカと接近して、ソ連を牽制しようとしたのである。一方アメリカとしては、共産主義の二つの大国である中ソが対立することは望ましかった。そうした両者の思惑が、米中を接近させるに至ったわけである。

米中接近は、日中接近につながっていった。中国としては、アメリカと接近することは、アメリカの格下の同盟国である日本との接近への障害がなくなることを意味していた。日本は高度成長を通じて経済力を高めてきており、技術的にも高い水準を誇るようになっていた。その日本の協力は中国の経済発展にとって望ましいことだった。それ以上に日中間には、過去の戦争の始末がいまだついていないという事情があった。遅かれ早かれ、過去の戦争の始末をつけて、好ましい二国間関係を築く必要があった。そんな事情があって、日中間の国交正常化にも、促進の機運が高まっていたのである。

ところが佐藤栄作には、日中間の国交正常化に向き合おうとする意欲がなかった。かれは1971年中に沖縄返還を実現させたが、それで以て自身の政治的なレガシーは達成されたと思ったのか、対中関係の改善にまともに乗り出そうとはしなかった。そのことは日本の経済界を落胆させた。中国市場が外国へ解放される事態を目前に控え、日本が遅れをとるのは痛恨事だと思ったのである。キッシンジャーの中国訪問の成果を踏まえ、中国は1971年中に国連の常任理事国として国際社会に復帰を果たし、政治的にも経済的にも重要度を高めていた。その中国について、佐藤栄作政権はなんらなすすべがなかったのである。

その佐藤は1972年の9月に政権を去る。去り際に開いた記者会見で、自分に批判的だった新聞に対して憎まれ口を叩いたのは有名な逸話である。その佐藤は、二年後の1974年にはノーベル平和賞をもらうことが出来た。戦争で失った領土(沖縄)を平和的に返還させたというのが受賞理由だった。返還にあたっては、佐藤は核抜き本土並みという条件をアメリカに飲ませたことを誇ったが、実際には核付きの密約をさせられ、本土並みとは程遠いことが後に明らかになる。佐藤は、密約を通じて国民をだましたばかりか、ノーベル賞の委員をもだましたといえる。ノーベル賞の受賞理由の一つに、佐藤が非核三原則などを通じて、核の廃絶に努力したという項目もあったのである。

佐藤のあとをついだ田中角栄は、日中国交正常化に熱心だった。国民もかれの対中政策を強く支持した。かれの政権発足時における高い支持率は、日中国交正常化への支持の表れでもあった。田中はその支持に応えた。組閣後わずか二ヵ月後には、中国を訪問して、周恩来や毛沢東など中国側要人と面会したのである。

日中国交正常化については、いくつかの条件が双方から出された。中国側の条件は、①中国は一つであること、②中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府であること、③台湾政府との日華条約は廃棄すること、である。この三つの条件を日本が受け入れることが前提であるというものだった。これに対して日本側は、台湾との関係も維持したいと考えていた。しかし中国がそれを受け入れるわけはなかった。そこで、国家間の公式な関係としては台湾との関係を絶ち切るが、民間レベルの関係は黙認するということで折り合いがついた。台湾の蒋介石はこれに激怒したが、いまや大陸中国の勢いにはかなわなかった。台湾問題のほかに、日米安保の問題もあった。日本は、日米安保は国の基本方針であり、見直すつもりはないことを主張した。中国はそうした日本の主張に理解を示した。対米接近したいま、アメリカは中国の脅威ではなくなったわけだし、そのアメリカが日本を実質支配して、日本に勝手なことをさせないことは、中国の安全保障にとっても有意義だと考えたのである。

もう一つ、日中間の懸案事項として尖閣諸島の問題があった。尖閣諸島は、日清戦争の時期に日本が国際法にもとづいて領土に編入し、それに対して中国側が抗議しなかったという事情があったが、日中国交正常化が動き出すのとほぼ同時期に、中国は尖閣諸島の領有権を主張し始めた。日本はそれに憂慮を示したが、周恩来は、いまはその問題に触れるのはやめようと言って、棚上げする姿勢を示した。

中国は、日本による戦争の被害について賠償請求しないかわりに、日本からの経済援助を期待したのだったが、日中間の経済関係はすぐには大きな拡大を見せなかった。それには毛沢東の意思が働いていた。毛沢東は、とりあえず日本との関係を正常化するが、あまり深い関係にまで進むことには消極的だった。

日中が全面的な協力関係を深めるようになるのは、毛沢東の死後鄧小平が中国のリーダーになってからだ。鄧小平は、フランス留学中の18歳の時に、できたばかりの中国共産党に入り、古いキャリアを誇っていたが、たびたび失脚の憂き目を味わってきた。文革中には、劉少奇と同じく息の根を止められそうにもなった。なんとか生き延びたのは、毛沢東がかれを個人的に好きだったからだといわれる。その鄧小平には、もともと経済重視の考えが強かった。経済が発展しなければ国の発展もありえないと考えていた。その考えを実現するためにも、日本は大いに利用価値があった。鄧小平は日本との間に平和条約を結び、二国間関係を安定させたうえで、日本の力を借りて中国を経済大国に導いていきたいと強く願った。その鄧小平のイニシャティヴで日中平和条約が結ばれ、日中は新しい関係を築いていくのである。

鄧小平は1978年10月に日本を訪問した。それより二ヶ月前に、日中平和友好条約が締結されていた。鄧小平は日本訪問の目的を述べた。日中平和友好条約の批准書にサインすることのほかに、日中間の友好のために働いた人々に感謝すること、及び中国近代化のための秘訣を日本から学ぶことだというのがそれだった。感謝すべき人の中には、折から汚職事件で自宅監禁中だった田中角栄が筆頭にあげられていた。また中国近代化のための秘訣については、経済界が日本の先進的な工場を見学させるなど、最大限の便宜をはからった。

以後鄧小平の掛け声のもとで、中国は改革解放に向って国を開いてゆき、日中関係は蜜月時代を迎えることになる。なお、鄧小平の訪日中、尖閣諸島が改めて話題になったが、鄧小平は、この問題は将来の賢明な世代にまかせようと言って、棚上げする姿勢を見せた。



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