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日本における火葬の始まり(柿本人麻呂の挽歌)


日本における火葬は、文武天王4年(西暦700年)3月に僧道昭を荼毘に付したのが始まりであると、続日本紀の記録にある。大宝2年12月(703年1月)には、持統天皇が歴代の天皇としてははじめて火葬にされ、天皇の孫だった文武天皇、同じく孫の元正とその母元明の両女帝もまた火葬に付された。これ以後、天皇が火葬されるのは、後鳥羽上皇や北朝の各天皇など、一部の例をのぞけば、なされなかったのであるから、8世紀初頭のこの時代は、火葬が一種の文化現象だったことが、察せられるのである。

道昭以前の、古代の日本人が全く火葬を行わなかったといえば、そうではないらしく、防人など行路の途に倒れた者などは、火葬されていたらしい。子どもの遺骸もまた、火葬されることが多かったようである。

道昭は遣唐使に従って入唐し、玄奘三蔵に教えをうけた高僧である。帰国後は日本の各地を歩き、土木事業などを起こしている。その弟子の行基もまた、師の教えを受けて、日本各地を歩き回る一方、民衆に火葬を進めたといわれている。彼らが火葬の普及につとめたのは、仏教思想に基づくものだと思われるが、それが日本人の間でたいした抵抗もなく受け入れられたのは、日本人の抱く伝統的な霊魂観が、火葬というものに対して、中立的に働いたからだと思われるのである。

古代の日本人にとって、霊魂というものは、身体とは別個の存在であった。人が生まれるということは、霊魂がある者の身体に宿るということであり、人が死ぬるということは、霊魂が身体を去るということだった。霊魂は一時的に身体を去ることもあった。失神したときがそうである。だから、人びとは人が失神したり、死んだりしたときには、霊魂が再び戻ってくることを祈った。それでもなお、霊魂が何時までも戻らぬときは、霊魂がこの身体を去って、他のものに乗り移ったのだろうとあきらめたのであった。

宗教によっては、人は生きていた時の姿であの世に迎えられるという信仰もある。そうした信仰にあっては、遺体を傷つけたり、まして焼いてしまうなどは、考えられないことだといえよう。しかし、古代の日本人たちにとっては、身体は霊魂の仮の宿りだったから、それを火葬することにおいて、異常な抵抗を感ずることもなかったのである。

万葉歌人柿本人麻呂は、道昭の死の前後に生きた人である。その作品のなかに、火葬を詠んだ歌、あるいは連想させる歌がいくつかある。それらを読み解きながら、人麻呂の時代における火葬のイメージについて考えてみたい。

   土形娘子を泊瀬の山に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
  こもりくの泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ

泊瀬の山は、人麻呂の時代火葬が行われるところだったらしい。ここで貴族が火葬されたとする記録があり、この挽歌も、そうした貴族の火葬を詠んだものと思われる。山際にいざよう雲とは、火葬の煙をさしていっているのだろう。この煙に、死者の霊魂を重ね合わせ、死者との別れを強調していることが伺われる。人麻呂は、宮廷歌人として、高貴な人びとの挽歌を多く作ったが、火葬を詠ったこの歌には、暗い気分は感じられない。

   溺れ死にし出雲娘子を吉野に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく

この歌においても、霊魂は霧となって、山の峰にたなびくさまが詠われている。人麻呂の時代、霊魂は、身体を離れても、それ自体は存在し続け、やがて他の身体に宿って、あらたな命として生き返るであろうという、信仰のようなものがあった。それが、この歌に見られるように、火葬のイメージを前向きにとらえさせたのに違いない。

以上2首は、道昭の死後、火葬が広がりつつあった時代の歌である。ところが、人麻呂には、最初の妻を亡くしたときに詠んだ歌があって、そこにも火葬のことが暗示されているのではないかという説がある。その歌は、定本では次のようになっている。

   柿本朝臣人麻呂の妻死して後に泣血哀慟して作りし歌
  …大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹は座すと 人の云へば 岩根さく
  みて なづみ来し 良けくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる
  ほのかにだにも 見えなく思へば

これには異本があって、それによれば、最後の部分が異なっているというのである。

  なづみ来し 良けくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰にて座せば

生きていると思った妻が灰になっていたとは、火葬されていたという意味である。これがもし、人麻呂の詠った本来の姿だったとしたら。挽歌の対象たる妻は道昭の死以前に死んだとされているので、火葬は道昭の死以前にもなされていた証拠になる。

人麻呂の生涯には不可解なことが多く、学者の論争の種にもなっているくらいであるから、彼を巡る考証は、筆者のような者のよくなしうるところではない。しかし、その挽歌一つをとっても、ひとびとの想像力を掻き立ててやまないとは、人麻呂はさすがに大歌人である。






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