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女たちの恋心:万葉集を読む


石川郎女、笠女郎、紀女郎、そして大伴坂上郎女といった具合に、万葉集には自分の恋心を高らかにうたった女性たちの歌が多く収録されている。それらについては、別稿でそれぞれ鑑賞したところなので、ここではややマイナーな存在の女性たちの歌を取り上げたい。阿倍女郎と高田女王だ。

阿倍女郎は詳細が不詳であるが、万葉集には、中臣朝臣東人との間で交した歌が載せられている。この二人は夫婦あるいは恋人であったと思われる。まず、阿倍女郎から贈った歌
  我が背子が着せる衣の針目おちず入りにけらしも我が心さへ (514)
趣旨は、あなたがお召しになっている衣の針目にすっかり縫いこまれてしまったようです、わたしの心までが、というもの。着せるは着るの敬語形、おちずは残らずすべてという意味。おそらくこれから旅立つ男に衣を贈ったのであろう。その衣に、自分の心まで縫いこんで、旅の途中あなたに付き添いますと歌っているわけであろう。

これに対する東人の歌。
  ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと為むすべ知らに音のみしぞ泣く(515)
一人寝しているときに、解きもしないのに切れてしまった紐がゆゆしく思われ、どうしていいかわからずに声を出して泣きました、という趣旨。たかが紐のことで男がこんなにうろたえるとは、と思うなかれ。万葉人にとって紐には特別の呪力があると思われていた。夫の旅立ちに大して妻は夫の衣の紐を結び、夫はそれを決して解くまいと誓った。そのことによって夫婦は離れ離れになることを避けたのだ。だから、紐が切れることは、夫婦の縁が切れる恐れを暗示していた。深刻な事態だったわけである。

これに対する妻の歌。
  我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき(516)
わたしの持っている三筋に縒った糸で紐を作ってさしあげればよかった、今となっては悔やまれます、という趣旨。これを読むと、夫を気遣う妻の強い気持ちがありありと伝わってくる。それに対して夫のほうは、泣きべそをかいたりして、あまりいいところがない。

この連作の少し前に、安倍女郎の歌とされるものが二首収められているが、この女性は上記の阿倍女郎と同一人物だろうと思われる。
  今さらに何をか思はむうち靡き心は君に寄りにしものを (505)
  我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にも我れなけなくに(506)
一首目は、いまさら何を思ったりしましょう、わたしの心はあなたのほうにうちなびいて寄り添っていますのに、二首目は、あなたさまには何も思わないでください、なにかあれば火にも水にも飛び込む覚悟をわたしはしておりますので、という趣旨。二首あわせて、男に寄り添い、いったんことあれば男のために尽くす女の覚悟を示したものだ。これも、上記の三首同様、男に対する女のほうの積極的な姿をものがたるものだ。

高田女王は、天武天皇皇子長皇子の曾孫。身分ある女性である。その女性が、今城王に贈った歌六首が万葉集に収められている。今城王は、大伴旅人の妻大伴郎女の子とも言われているが、詳しくはわからない。その男に高田女王が寄せた歌六種を一括して掲げる。
  言清くいたもな言ひそ一日だに君いしなくはあへかたきかも(537) 
  人言を繁み言痛み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子(538)
  我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを(539) 
  我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる(540) 
  この世には人言繁し来む世にも逢はむ吾が背子今ならずとも(541) 
  常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじとたゆたひぬらし(542)
一首目は、そんなにはっきりといわないでください、わたしだってあなた無しではつらいのですから、二首目は、人のうわさが気になってあうのをやめたのです、二心あるなどと思わないでください、三首目は、あなたさえわたしと添い遂げようとおっしゃるなら、わたしの方でも出ていってお会いしましょう、四首目は、あなたに二度と会うまいと思ったからでしょうか、今朝の別れがどうしてよいかわかりませんでした、五種目は、この世では人のうわさがうるさすぎます、あの世であいましょうね、いづれまた、六種目は、いつもやってきたあなたのお使いが来ませんのは、あなたはもう会うまいとお考えなのでしょうか、という趣旨。

これらの歌を通じて浮かび上がってくるのは、女と男の駆け引きである。その駆け引きの中で女は、異常に世間の噂を気にしている。夫婦ならそんなに気にする必要はないはずだから、これは結婚する前の男女の駆け引きなのか、あるいは不倫の愛なのか、そのどちらかだろうと思われる。どちらにしても、恋に対する女のほうの積極さが伝わってくる。





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