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春の相聞:万葉集を読む


万葉集巻八は、四季の歌を集めており、季節ごとに雑歌と相聞とに分類されている。相聞の部は、いうまでもなく男女の恋をテーマにしたもので、いつくかの男女の間に交わされた歌が主に収められている。ここではその中から、男女の恋のやりとりをめぐる洒落た歌を鑑賞してみたい。

まず、藤原朝臣広嗣が桜の花を娘子に贈った際の歌。
  この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな(1456) 
桜の花のこの一枝のうちにさまざまな言葉が隠れています、おろそかにしてはいけません、という趣旨。藤原広嗣は、聖武朝の時代に謀反を起こした(藤原広嗣)ことで知られる。無骨な人間だったらしいが、こんな歌を娘子に贈る一面ももっていたわけだ。いろいろな言葉が花の枝に隠れているというのは、そういう迷信が流布していたのだろう。

これに対する娘子の返歌。
  この花の一節のうちは百種の言待ちかねて折らえけらずや(1457) 
この花の一枝にあまり多くの言葉が隠れているので、その言葉の重みに耐えかねて折れてしまったのではないですか、という趣旨。折れてしまったというのは、恋が成就しなかったということか。この娘子が誰であるか、詳しくはわからない。

次に、厚見王が久米女郎に贈った歌。
  やどにある桜の花は今もかも松風早み地に散るらむ(1458) 
あなたの家の庭にある桜の花は、松風が強く吹いて散ってしまっただろうか、という趣旨。桜の花が散るのは、心変わりをあらわす。女がもはや自分を思ってくれなくなったのかと、問いかけているわけであろう。厚見王は万葉集に三首の歌が収められている。「かはづ鳴く神奈備川に影見えて今や咲くらむ山吹の花」が名高い。

これに対して久米女郎が答えた歌。
  世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも(1459) 
世の中がいつも同じだとは限りませんので、もう桜の花も散るころでしょう、という趣旨。厚見王の切ない問いかけに対して、あなたの言うとおり心変わりしましたのよ、と言っているわけだ。万葉人はこのように、簡単に心変わりしたものらしい。なお、久米女郎は伝未詳。

次は大伴家持と紀女郎の相聞歌。この二人の相聞歌は、巻四にも収められており、それについては別稿でも取り上げたところ。まず、紀女郎が大伴家持に贈った歌二首。
  戯奴(わけ)がため我が手もすまに春し野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ(1460)
  昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木し花君のみ見めや戯奴さへに見よ(1461)
一首目は、あなたのために私が手づから抜いた春の野の茅花です、これを食べて肥りなさい、という趣旨。二首目は、昼は咲き夜は恋いながら寝るというこの合歓木を、持ち主である私だけが見てよいものでしょうか、あなたもごらんなさいよ、という趣旨。戯奴は若と同根の言葉で、相手に呼びかけるときに使われる、あなたとかお前といったニュアンスだ。合歓木には男女交合の意味が隠されている。その言葉を使ってエロチックな雰囲気を演出しているわけで、これは紀女郎がただならぬ女性だったことをうかがわせる。

これに対する大伴家持の返歌。
  吾が君に戯奴(わけ)は恋ふらし賜りたる茅花を喫めどいや痩せに痩す(1462)
あなたから「わけ」と呼ばれたこのわたしが、あなたを恋焦がれているようです、いただいた茅花をいくら食べても痩せるばかりなのです、という趣旨。女の側のダイナミックな呼びかけに対して、男の家持がしおらしく答えた形だ。





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