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斉明女帝の歌:万葉ぶりの始め


万葉集巻一は、冒頭に雄略天皇に仮託された伝承歌を据えた後、二首目には時代を超えて舒明天皇の歌を置いている。しかして、舒明天皇の后斉明〔皇極〕天皇以後、各天皇の時代区分に従って、それぞれの時代を代表する歌を並べている。

舒明天皇は天智天皇の父君である。万葉の世紀は大化改新以後百年の間をカバーしていると序論で述べたが、舒明天皇はそれに直接先立つ時代の天皇として、万葉の世紀へのいわば導入的な位置づけを持たされているのだともいえよう。

舒明天皇の御製歌は雄略天皇の歌同様、国寿ぎ歌である。歌には壮大な気分がみなぎっており、古代王朝の儀礼的権威を伺わせる。

―高市の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代
  天皇の香具山に登りまして望国(くにみ)したまへる時にみよみませる御製歌
  大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 
  国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ 
  うまし国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は(2)

天の香具山は古来神聖な山としてあがめられていた。恐らく古代人の信仰にあって、祖霊が天下ってくる場所として観念されていたのだろう。その山の上から大和の国を一望すれば、国原には煙がたち、海原には鴎が舞い飛ぶと歌う。日本人が国土に寄せる親愛な感情が素直に現れた、いい歌である。

この歌に続いて、中皇命(なかつすめらみこと)が間人連老をして舒明天皇に献らせたという歌がおかれている。中皇命が誰であるか、またほかならぬ中皇命自身がこの歌を書いたのかどうか、従来議論があった。齋藤茂吉などは、結局わからぬといって匙を投げているが、北山茂夫などは斉明天皇であると断定している。筆者は浅学にして確実な証拠を提出できるわけでもないが、ここでは北山説に従って、中皇命を斉明天皇として読み進んでいきたい。

―天皇の宇智の野に遊猟したまへる時、中皇命の間人連老をして献らせたまふ歌
  やすみしし 我が大王の 
  朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕へには い倚(よ)り立たしし 
  み執(と)らしの 梓の弓の 長弭(なりはず)の 音すなり 
  朝猟(あさがり)に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし 
  み執らしの 梓の弓の 長弭の音すなり(3)
反歌
  玉きはる宇智の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野

これは、舒明天皇が宇智の野に狩をする姿を、后であった斉明女帝が留守宅にあってしのびつつ歌ったものである。互いに遠く離れていながら、夫たる天皇の手にする梓弓の音が聞こえると歌うところは、夫婦の情愛を感じさせる。単なる儀礼に終わらず、人の感情のきめ細かさが盛られている点で、日本の詩歌史上に新しい息吹を持ち込んだ歌とも言えるのではないか。

その意味で、斉明女帝のこの歌は、万葉ぶりが始めて現れたそもそもの歌として、評価を受けるに値する作品である。

斉明女帝の歌は、10首目以降にも3首並べて載せられている。

―中皇命の紀の温泉に徃(いま)せる時の御歌
  君が代も我が代も知らむ磐代(いはしろ)の岡の草根をいざ結びてな(10)
  我が背子は仮廬作らす草(かや)無くば小松が下の草(かや)を苅らさね(11)
  吾が欲りし子島は見しを底深き阿胡根(あこね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ(12)
  右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、天皇ノ御製歌ト云ヘリ。

左書に山上憶良が天皇ノ御製歌云々とあることから、中皇命の紀とはあるが斉明女帝が即位した後の歌と解するのが自然である。女帝は夫君同様出遊とりわけ温泉を好んだようで、南紀へ旅行したことは記録にもある。

一首目にある君とは舒明天皇のことか。夫と自分の時代の連続性を確認するために、岡の草や根を結ぼうと歌ったのであろう。また二首目では、旅先の仮宿を作るべく、草を刈って屋根としなさいと臣下に命じている。女帝のうきうきした気分が伝わってくるようである。

万葉集巻四にも、岳本天皇すなわち舒明天皇がよんだとする歌が載せられている。

―岳本天皇のよみませる御製歌一首、また短歌
  神代より 生(あ)れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて
  あぢ群(むら)の 騒きはゆけど 吾(あ)が恋ふる 君にしあらねば
  昼は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜の明くる極み
  思ひつつ 寝(いね)かてにのみ 明かしつらくも 長きこの夜を(485)
反歌
  山の端にあぢ群騒き行くなれど吾(あれ)は寂(さぶ)しゑ君にしあらねば(486)
  近江路の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)日(け)のこの頃は恋ひつつもあらむ(487)

君と呼びかけるところや、歌の雰囲気からして、これはあきらかに女性の歌である。そんなところから、この歌は舒明天皇の歌ではなく、斉明天皇の歌であろうと考えられてきた。

その辺の事情を踏まえて読み直すと、斉明天皇の女ながらにしての国土経営への思いが伺われる。

斉明天皇は、称徳天皇同様二度にわたって王位につかれた。一度目は夫舒明天皇が死んだ直後であり、皇極天皇と称せられる。その後孝徳天皇の短い治世を挟んで斉明天皇として重祚した。皇太子中大兄(天智天皇)が即位するまでの?ぎ役であったと思われる。







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