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天智天皇:万葉集を読む


天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新をなしとげ、即位して後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが、万葉集に納められている歌から伺われるように、人間的な側面をも併せ持っていた。

天智天皇が政治的実権を手中にしながら、長らく即位しなかったことについては、様々な憶測がなされてきた。有力な説としては、弟大海人(天武)への配慮、またその背後に控える豪族たちとの抗争といったもの、或は女性関係に原因があるといったものである。

今日から見てもっともらしいのは、やはり女性関係であると考えられる。天智天皇が大勢の女性を妻にしたことは有名であるが、特異なのは同母の妹間人皇女との関係である。天智天皇はこの実の妹と関係を持ち、彼女を孝徳天皇の后として嫁がせた後も関係を持ち続けた。孝徳天皇が難波に遷都した後、天智天皇は群臣たちをすべて引き連れて大和に帰ってしまったことがあったが、このとき孝徳の皇后だった間人皇女まで天智と行動をともにした。かれらの関係を苦々しく思っていた孝徳天皇は、二人の不倫を揶揄すると思わせる歌を作っている。(日本書紀記載)

古代の日本においては、異母兄弟姉妹が結婚することは許容されていたが、同母の間柄での性的関係はタブーであった。そんなことから、天智天皇には、自分の汚点を注ぐのに、時間がかかったのだと思われるのである。

それはさておき、万葉集は天智天皇の皇太子時代の歌を載せている。

―中大兄の三山の御歌
  香具山は 畝傍(うねび)を善(え)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき
  神代より かくなるらし 古昔(いにしへ)も しかなれこそ
  現身(うつせみ)も 嬬(つま)を 争ふらしき(13)
反歌
  香具山と耳成山と戦(あ)ひし時立ちて見に来(こ)し印南(いなみ)国原(14)
  綿津見の豊旗雲に入日さし今宵の月夜(つくよ)きよく照りこそ(15)
右ノ一首ノ歌、今案(カムガ)フルニ反歌ニ似ズ。但シ旧本此ノ歌ヲ以テ反歌ニ載セタリ。故レ今猶此ノ次ニ載ス。亦紀ニ曰ク、天豊財重日足姫天皇ノ先ノ四年乙巳、天皇ヲ立テテ皇太子ト為ス。

左書から、皇極天皇4年の時の歌か。もしそうなら蘇我氏を倒した年である。

畝傍山を巡って、香具山と耳成山の争ったさまが歌われている。恋をめぐる駆け引きを三つの山の争いに喩えたのでもあろうか。それぞれが誰をさすのかはわからない。

天智天皇の歌としてはもうひとつ、鏡女王との相聞の歌が万葉集に載せられている。

―天皇の鏡女王に賜へる御歌一首
  妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺(ね)に家居(を)らましを(91)

―鏡女王の和へ奉れる歌一首
  秋山の樹(こ)の下隠(がく)り行く水の吾(あ)こそ勝(まさ)らめ思ほさむよは(92)

ついで天智天皇の后の歌を取り上げよう。

天智の数多くの后たちのなかで皇后の地位についたのは倭姫王である。倭姫王は古人大兄皇子の娘で、父親は天智によって殺されている。天智の子を産むこともなく、記紀も殆ど記するところがないが、夫の死に際して哀切な歌を作っている。

―天皇の聖躬不豫(おほみやまひ)せす時、大后の奉れる御歌一首
  天の原振り放け見れば大王の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり(147)
一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、御病急(ニハカ)ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト。

これは、天智が不治の病に倒れたときに皇后が詠んだ歌である。病に倒れたとはいえ、大君の命は永遠に続くに違いないと、なかば呪術的な願いが込められているともいえる。

続いて、天皇の死に際して、皇后が作った短歌と長歌を読んでいただきたい。

―天皇の崩御せる時、大后のよみませる御歌二首
  青旗の木旗(こはた)の上を通ふとは目には見ゆれど直(ただ)に逢はぬかも(148)
  人はよし思ひ止むとも玉蘰影に見えつつ忘らえぬかも(149)

―大后の御歌一首
  鯨魚(いさな)取り 淡海の海を
  沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
  沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
  若草の 夫(つま)の命の 思ふ鳥立つ(153)

自分ひとりが夫の愛を独占したわけではなかったのに、その死に際しては誰よりも強く、まるで悲しさを独占しているかのように、切々たる情を歌う。

倭姫王は、類まれな優しい真情の持ち主だったようだ。






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